ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

アブラハムもダビデも神のひとり子を知っていた

 

 アダムから始まった人、アダムの子孫は、人類となりました。

 創造主であられる神は、良いものとして造られたものが暴虐に満ち、悪いものとなったので、一度、世の良い部分(神のお選びになった生き物)を残して、悪くなったものを、天からの大水で洗い流されました。

 

 神は、大水から救い出して御自分のために残されたノアの家族からスタートして、世をやり直されました。

 アダムの子セツは、アダムのかたちどおりの子でした。神は、セツの子孫ノアの時代に、世の営みを一掃して、やり直されました。

 

 アダムのかたちどおりと言っても、エデンの園に置かれたアダムとは異なります。神のことばから外れたアダムから生まれているからです。しかし、セツは、神の御心にかなっていました。

 

 アダムの最初の子カナンは、正しく生きる弟のアベルを妬み弟の正しいのを憎んで殺害してしまうほどに、よこしまな者でした。罪の子だったのです。

 しかし、セツは、神が最初に造られ、非常に良いものだったアダムに似た、アダムのかたちどおりの子でした。

 

 セツから六代目(アダムから七代目)のエノクは神とともに歩みました。

 へブル書に、エノクのことが書かれています。

 

 「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。(エノクは、生きたまま天に移されました)

 (天に)移される前に、彼(エノク)は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

 信仰がなくては神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければなりません。」(へブル11:5,6)

 

 エノクは、目に見えない神を信じ、霊とまことによって神を恐れ、神とともに歩んだのです。

 天はいのちの世界。地は死の世界。人はだれでも、やがて死に、朽ちて土にもどります。

 エノクの霊は神とともにありました。いのちとともにあったのです。いのちとともにあるエノクの霊に、死は必要ありません。死の必要のないエノクは、地上に留まらなくてよいのです。エノクは、死を体験することなく、天に移されました。

 

 エノクにメトシェラが生まれ、メトシェラにレメクが生まれ、レメクにノアが生まれました。そして、ノアの時代に、世は大水で洗い流されました。

 

 へブル書に、ノアのことが書かれています。

 「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事柄について神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め(神を信じる者は箱舟の中にはいって大水から救い出されて生きるが、神を信じない者は箱舟の中にはいることなく大水に流されて死ぬ。大水によって洗われたときに世が大水によって滅んだことにより、世は、罪あるものであることが明らかになりました)、(大水から救い出されたノアは)信仰による義(神への信仰によって神の御前で正しい者と認められる義)を相続する者となりました。」(へブル11:7)

 

 ノアは、大洪水が起こる七百年も前に、世を大水で滅ぼすという神の御計画を、神から聞いていました。

 神を信じる正しい人ノアは、まだ見ていない大洪水の起こることを信じ、聖なる全能の主と神の御計画とを恐れかしこんで、家族の救いのために、箱舟を造りました。

 

 箱舟を造り始めてから、大洪水が起こるまで七百年の時が経っていました。ノアとノアの家族は、神の仰せられる大洪水を信じて、七百年の間、箱舟を造り続けたのです。

 

 「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これ(神のことば)に従い、どこに行くのかを知らないで、(父の家を)出て行きました。

 信仰によって、彼(アブラハム)は約束された地(神がアブラハムに与える、と仰せられたカナンの地)に他国人のように(寄留者と)して住み、同じ約束(カナンの地を相続する契約)をともに相続する(アブラハムの跡取り)イサクや(イサクの相続人)ヤコブとともに天幕生活(仮庵の生活)をしました。」(へブル11:8,9)

 

 大洪水の滅びから救い出されたノアは、救ってくださった主を、「セムの神」と呼びました。セムは、ノアの三人の息子のうちのひとりです。

 アブラハムは、セムの子孫です。アブラハムは、水の滅びから救い出してくださったノアの神、セムの神を恐れる者でした。

 

 アダムの子セツから始まって、水の滅びから救い出されたノアも、カナンの地の相続を約束されたアブラハムも、信仰の人として死にました。

 アブラハムは生きている間に、約束のものを手にすることはありませんでしたが、はるかイサクの子孫にその約束の実現を、信仰によって望み見て喜びました。

 

 アブラハムに約束された契約の実現を待ち望むアブラハムの子孫は、アブラハムの神を信じました。

 主御自身が、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださることを信じたのです。

 

 アブラハムの子孫ユダヤ民族から出たナザレのイエスは、ユダヤ人たちに言いました。

 「あなたがた(ユダヤ民族)の父アブラハムは、わたしの日(神がアブラハムに「地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」と仰せられた、アブラハムのひとりの子孫、すなわち、神の御子キリストが世に来られる日)を見ることを思って大いに喜びました。彼(アブラハム)は(信仰によって)それ(神が遣わされる神のひとり子キリストが地上に来られる日)を見て、喜んだのです。」(ヨハネ8:56)

 

 神の契約を受け継いだ人々は、(自分は)地上では旅人であり、寄留者である(地上は仮住まいである)ことを告白していました。

 彼らは、地上よりもさらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷(とこしえの天の御国)に憧れていたのです。実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にある故郷でした。

 

 「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。事実、神は(信仰によって望み見、また、神を慕い求める信仰を、受け継ぐ)彼らのために、都を用意しておられました。(神は、信仰の勝利者たちのために、神のみもとを出て、天から下る聖なる都、新しいエルサレム(神の都)にいのちの木を用意しておられます)」(へブル11:16)

 

 アブラハムが、神の契約の実現を望み見て喜んだとき、霊において神のひとり子イエス・キリストを見ていたのでしょう。

 アブラハムは、自分が息を引き取ってから二千年後に生まれるイエス・キリストを見ていたのです。

 イエスはユダヤ人として生まれる以前は、永遠の昔から父なる神とともにおられ、御使いたちに仕えられる、神のひとり子でした。

 

 イエスは、アブラハムが生まれる以前から存在しておられました。

 イエスは、最初の人アダムが造られる以前から存在しておられました。

 父なる神とともに、天地万物を造られた神のひとり子、イエスは、霊なる存在だったのです。

 イエス・キリストは、アダムの主であり、アブラハムの主であり、ダビデの主です。

 

 神は、ダビデの家を祝福し、ダビデ王に、とこしえにダビデの王座に着く王を与える、と約束されました。とこしえの王は、永遠に生きる王です。

 それで、イスラエルに平和をもたらし、世界を治め、ユダヤ人を高く上げてくださる「ダビデの子」を、ユダヤ民族は待ち望みました。それは、神に油注がれた「キリスト」であり、永遠に生きる「メシア」です。

 

 十字架につけられ、世の罪を取り除く罪の贖いのために、ご自分の血を流された方(ナザレのイエス)は、神が遣わされた「キリスト」であり、ダビデの王座に着く「イスラエルの王」でした。

 神の子羊の血を流されたナザレのイエス。すなわち、死から甦り新しいからだで復活されたイエス・キリストのことをさします。

 

 ダビデは、詩篇で神の御子のことを賛美しています。

 「主(全能の主、霊の父)は、私(ダビデ)の主(神のひとり子、魂の父)に仰せられる。

 『わたし(全能の神、主)があなたの敵(神のひとり子の敵、すなわち、悪魔)をあなたの足台とするまでは(反キリストの国が世界を治める三年半の、悪魔が支配する時代の後、獣〈反キリストと偽預言者〉を滅ぼし、悪魔を底知れぬ穴に投げ込むときが来るまで、すなわち、肉の世の終わるときまでは)、わたし(父なる神)の(御座の)右の座に着いていよ。」(詩篇110:1)

 

 ダビデは、千年後に「ダビデの子」としてお生まれになる主(神のひとり子キリスト)を見ていたのです。

 

 ユダヤ人のダビデ、すなわち、イスラエルの王ダビデは、イスラエルの神にひとり子があることを知っていたようです。  

 

 ユダヤ民族の父祖であるアブラハムもダビデも、信仰によって、目に見えない神の栄光を見、神のことばに聞き従い、神の約束を信じました。

 彼らは、霊なる神のひとり子の栄光を見ていました。肉体の「人の子イエス」として受肉する以前の、神のひとり子の栄光の御姿を見たのでしょう。

 

 イエスを主と告白する私たちは、アブラハムが見ていた「天の故郷の主」、ダビデが見ていた「神のひとり子の栄光の主」を信じているのです。