「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言った。
『この人(ナザレのイエス)は、「わたし(イエス)は神の神殿を壊して、それを三日のうちに立て直せる。」と言いました。』
そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。
『何も答えないのですか。この人(偽証者)たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。(本当のことですか)』
しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。
『私(大祭司)は、生ける神によって、あなた(イエス)に命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。』
イエスは彼(大祭司)に言われた。
『あなた(大祭司)の言うとおりです。(わたしは、あなたの言うとおり、神のひとり子キリストです)なお、(神の御子キリストを十字架につけて処刑する)あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子(キリスト)が、力ある方(全能の神、主)の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。(イエスは、大祭司たちユダヤ人に、ナザレのイエスが十字架で処刑されたあとに起こることを語られました。すなわち、キリストである神の御子イエスは、墓から三日目に甦り、復活のからだで天に上り、「キリスト」の権威(聖霊のバプテスマを授ける権威)を受けて、神の御座の右に着座すること。そして、キリストが悪魔の勢力を滅ぼして世を改める時には、十字架につけた神の子羊イエス・キリストが民を救うために、天の雲に乗って来るのを、ユダヤ人たちは見ることになる、ということを。』
すると、(ナザレのイエスが、神に遣わされたキリストであることを信じない)大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。(大祭司は、衣を引き裂くことで、イエスのことばが不真実であることを強調し、また、騙す者であるイエスに対して神の怒りを表現しました)
『(イエスの言うことばは不真実だ。自分を聖なる神の子であるとする不遜、キリストであるという虚言。これは赦されることではない。イエスは、神が選ばれた聖なる祭司の国民イスラエルから絶ち滅ぼされなければならない。イエスの証言は、聖なる神をけがすことばだ)神への冒瀆だ。
これでもまだ、(イエスを訴える)証人が必要でしょうか。(こんなイエスの偽証を聞いて、イスラエルは黙っていられるでしょうか。聖なる神を冒瀆するこの男は、民を騙す者だ)あなたがたは、今、神をけがすことばを(イエス自身の口から)聞いたのです。(律法の知識のない民衆を騙すこの男は、聖なる神の御名を汚し、聖なる民をも汚しているのです)
(イエスの、このような、神を冒瀆することばを聞いた)あなたがた(神の祭司の国民として集まった全議会)はどう考えますか。』
彼ら(全議会)は、答えて、『彼(大きなことを言って民を惑わすナザレのイエス)は死刑に当たる。』と言った。
そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。
『当ててみろ。キリスト(自称メシア)。あなた(キリスト)を打ったのはだれか。』」(マタイ26:59-68)
カヤパが大祭司であった年にも、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集していました。
イエスは、ユダヤ人たちの間を巡り、盲人の目をあけ、耳の聞こえない者の耳を開き、病人を癒し、悪霊を追い出し、罪の赦しを宣言し、死人を生き返らせ、多くの奇蹟としるしによって、生ける神の栄光を現わしていました。
正規の学びをしていないナザレ人の田舎者のイエスが、エルサレムの大祭司たち律法の専門家たちを脅かしています。祭司長たちは妬みに燃えていました。
「そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。
『われわれ(議会)は何をしているのか。あの人(ナザレのイエス)が多くのしるし(証拠としての奇蹟)を行なっているというのに。(民の多くは、イエスを「キリストだ。」と言って、従っているではないか)
もしあの人(ナザレのイエス)をこのまま放っておくなら、すべての人(ユダヤ人たち)があの人(イエスのことば)を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、我々(祭司たちレビ人)の土地も国民も奪い取ることになる。(祭司たち神に仕えるレビ人は、ローマ帝国から庇護されていました。それで、ローマの重税にあえぐユダヤ人たちの中で、レビ族の土地は守られ、また、ユダヤ人から十分の一を徴収するというレビ族の特権は守られていました。レビ族は、ローマ帝国の属州となったあとでも、苦しむことはなかったのです。しかし、ナザレのイエスがキリストであり、ユダヤ人の王だと噂が広まるならば、ローマからの圧力は目に見えています。ローマ帝国への反逆とみなされるでしょう。レビ族は、イスラエルの神を恐れることよりも、自分たちの生活を守るためにローマ人を恐れることを選んだのでした)』
しかし、彼ら(議会)のうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼ら(議会)に言った。
『あなたがたは全然何もわかっていない。
ひとりの人(神の子羊イエス)が民(イスラエル)の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(イエスを十字架で処刑することは、レビ人の立場の守りのためだけではない。神の子羊イエスが十字架にかかって死ぬことは、イスラエルの贖いなのだ。イスラエル全体が神に受け入れられる聖なるものとなるためにも、必要なことなのだ。カヤパはその年の大祭司であったので、神の霊が、彼の口に神のことばを上らせたのでした)
ところで、このこと(カヤパが議会に語ったことば)は彼(カヤパ)が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民(イスラエル)のためだけでなく、散らされている(十部族の)神の子たちを一つに集める(十二部族のイスラエルとする)ためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
そこで彼ら(議会)は、その日から、(ナザレの)イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:47-53)
大祭司は、アロンから始まった系図の者であって、年ごとに立てられます。神はその年の大祭司に、大祭司としての油を注いでおられます。
カヤパはその年の大祭司であったので、自分の意識しないところで、神の預言を語っていたのです。自分の意識ではナザレのイエスをキリストだとは認めていないのですが、大祭司の油によって、ナザレのイエスが、神に遣わされた「世の罪を取り除く神の子羊」であることを証言したのです。
神は、神の祭司の国民のところ(イスラエル)に、罪の贖いの神の子羊を遣わして、大祭司によって、神の子羊を屠らせなさいました。
出エジプトを記念する、イスラエルの過越しの祭りの日に、エルサレムで、神の子羊イエスの血は流されました。
すると、その日、イエスが十字架につけられた正午から三時の間、太陽は暗くなり、また、木につけられたイエスが息を引き取られると、大きな地震が起こって神の神殿の幕は上から下に真二つに裂けました。
イスラエルが神の命令に従って毎年守ってきた、奴隷の家エジプトから救い出された記念の「過越しの祭り」の日に、神は、新しい過越しの「神の子羊」を用意されたのでした。
神が用意された神の子羊イエスの血は、罪の奴隷からの解放を告げる、新しい過越の血でした。
神に命じられたとおり、忠実に過越しの祭りを守り、出エジプトを記念してきた神の祭司の国民イスラエルは、この年、大祭司とユダヤ人たちによって、神の都エルサレムに立てられた十字架において、神が用意され天から与えられた「罪の贖いの聖なる神の子羊(神のひとり子ナザレのイエス)」の血を流しました。
こうして、神がモーセにお与えになった律法は、神の子羊イエスの従順によって完成しました。旧約時代に獣の血を流して行なったすべての祭祀は、廃止されました。
そして、神の子羊イエスの血によって律法を完成したイスラエルに、神は、神の御子イエス・キリストによって、新しい律法をお与えになったのです。
肉の割礼と文字の律法を完成された神の子羊イエス・キリストは、新しい律法をお与えになりました。
生けるまことの神を霊とまことによって礼拝する者の新しい割礼は、肉ではなく心に授けられます。また、イエス・キリストがお与えになる聖霊のバプテスマによって受ける「真理の御霊」が、いのちの律法となるのです。
新しい律法は、心の割礼と、また、真理の御霊に聞き従うことです。
主の道を真っすぐにするために遣わされたバプテスマのヨハネ(エリヤの霊)によって「世の罪を取り除く神の子羊」と証言されたキリストの、罪の贖いは、イエス・キリストの血によって成就しました。
また、バプテスマのヨハネの証言どおり、神の子羊イエスは、復活すると天に上られて、聖霊のバプテスマを授ける「キリスト」となられたのです。
ナザレのイエスこそ、神が遣わされた、正真正銘のキリストでした。
さて、大祭司たち議会が神への冒瀆だと判決して十字架につけたナザレのイエスは、神の御座の右に着座しておられます。
ヨハネの黙示録には、終わりの時代に起こることが預言されています。
「見よ、彼(神の子羊イエス・キリスト)は、(天の)雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を突きとおした者たちは、彼(十字架につけたナザレのイエスであり、復活してキリストとなられたメシア)を仰ぎ見るであろう。(ユダヤ人たちは、十字架につけたナザレのイエスが自分たちの救い主であることを悟り、仰ぎ見る)また地上の諸族はみな、彼(天から来られたキリスト)のゆえに(イエス・キリストがまことの救世主であったことを悟って)胸を打って嘆くであろう。(彼らは、反キリストが「平和の君、世の救い主」だと思っていたでしょう。しかし、反キリストが殺戮したユダヤ人やキリスト者たちが「メシア」と呼んでいた「主」を目のあたりにした地上の人々は、もう取り返しがつきません。ユダヤ人とキリスト者の主イエス・キリストこそが、本物のキリストだったのです。無念でなりません)」(黙示録1:7)