ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ユダヤ人たちは処刑を求めた キリストは父に赦しを求めた

 

 「総督は、その祭り(過越しの祭り)には、群衆のために、いつも望みの囚人のひとりだけ(群衆が望む者を)赦免してやっていた。

 そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕えられていた。

 それで、彼ら(ユダヤ人たち)が集まったとき、(総督)ピラトが言った。

 『あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。』

 ピラトは、彼らが妬みからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。(ユダヤ人たちは、父祖アブラハムよりも先に生きていたと言うイエス、また、神の子だと言うイエスに、強い妬みを持っていたのです)

 また、裁判の席に着いていたとき、彼(ピラト)の妻が彼のもとに人をやって言わせた。『あの正しい人(罪を認めることのできないイエス)にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。』

 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。

 しかし、総督は彼らに答えて言った。『あなたがた(ユダヤ人たち)は、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。』彼ら(ユダヤ人)は言った。『バラバだ。』

 (裁きの権威を持つ)ピラトは彼ら(ユダヤ人たち)に言った。『では、キリストと言われている(ナザレの)イエスを私はどのようにしようか。』彼らは(ユダヤ人たち)はいっせいに言った。『十字架につけろ。』

 だが、ピラトは言った。『あの人(ナザレのイエス)がどんな悪い事をしたというのか。』しかし、彼ら(ユダヤ人たち)はますます激しく『(ナザレのイエスを)十字架につけろ。(恩赦を与えるのはナザレのイエスではない。バラバだ。イエスは十字架につけろ)』と叫び続けた。

 そこでピラトは、自分では手を下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。

 『この人(ナザレのイエス)の血について、私(死刑を執行するピラト)には責任がない。自分たちで(ユダヤ人たち自身が、ユダヤ人のイエスを)始末するがよい。』(ピラトは手を洗うことで、群衆に表明しました。ナザレのイエスを処刑するのは、ピラト自身ではない。ユダヤ人たちがつけるのだ。ピラトは、このようにして、正しい人〈イエス〉を十字架につける罪を負わないことを群衆の前で表明したのです)

 すると、民衆(ユダヤ人たち)はみな答えて言った。

 『その人(ナザレのイエス)の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。(ナザレのイエスを処刑する責任は、ユダヤ人が負います。ユダヤ人の私たちがイエスを処刑するのです。その責任は、ユダヤ人である私たちと私たちの子どもたちが負います)』

 そこで、ピラトは彼ら(イエスの処刑を要求する群衆)のために(群衆が赦免を要求する極悪人の)バラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために(祭司長たちに)引き渡した。」(マタイ27:15-26)

 

 神の遣わされたキリストであることを悟ることのできないユダヤ人たちは、神の子であると自称するナザレのイエスを呪い、キリストを処刑するように要求しました。

 そして、ナザレのイエスの血の呪い、すなわち、イエスを処刑することはユダヤ人たちの固い意志であり、イエスを罪に定め十字架につける責任を負うことを誓ったのでした。

 

 アダムの子カインが弟を妬んで殺したとき、神は、殺人者カインに何と仰せられたでしょうか。

 「あなた(カイン)は、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟(のアベル)の血が、その土地からわたしに叫んでいる。(兄カインに殺されて無念の死を遂げたアベルの血〈いのち〉は、神に訴えている)

 今や、あなたはその土地に呪われている。その土地は口を開いてあなた(カイン)の手から、あなたの弟(アベル)の血を受けた。 

 それで、あなた(カイン)がその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのために(正しい人を正しいがゆえに殺したあなたの罪のために)その力を生じない。(カインが流した正しい人アベルの血によって、土地はカインに敵対する者となり、カインを養うことを喜ばない)あなた(罪のない正しい弟を、妬みゆえに殺したカイン)は地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創世記4:10-12)

 

 神は、神のひとり子をイスラエルに遣わすとき、神の民のユダヤ人たちが御子を温かく迎え、よくしてくれることを望まれたことでしょう。

 しかし、彼ら(ユダヤ人たち)は、神の御子を信じず、はずかしめを与え、嘲り、呪い、とうとう、殺してしまったのです。

 

 「イスラエルの神。私たちの神。」と口では敬うが、心は神から離れているのです。

 

 こうして、預言者イザヤを通してユダヤ人たちの先祖に語られたことは、イエスを十字架につけた世代の人々に成就しました。

 「この民(イスラエル)のところに行って、告げよ。 

 あなたがた(ユダヤ人たち)は確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

 この民(神と契約を結んだ聖書の民ユダヤ民族)の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。

 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、(神に)立ち返り、わたし(キリストを遣わすと約束した全能の神、主)に癒されることのないためである。」(使徒28:26,27)

 

 このみことばを引用したパウロは、ユダヤ人たちに言いました。

 「ですから、承知しておいてください。神のこの救い(永遠のいのちを得させる神の御子キリストの福音)は、異邦人に送られました。彼ら(律法のない異邦人)は、(キリストの福音に)耳を傾けるでしょう。」(使徒28:28)

 

 神は、弟を殺したカインに、地上をさまよい歩くさすらい人となる、と仰せられました。

 

 同じ神は、神の御子イエス・キリストを殺したユダヤ民族を約束の地から、諸外国に離散させられました。そして、千八百年以上国のない民、自分の国ではない国の在留異国人として、迫害され、安らぐことはありませんでした。

 

 彼らが、神の御子イエス・キリストを処刑したからでしょうか。いいえ、彼ら(神の祭司の国民のユダヤ人)は、世の罪を取り除く、罪の贖いの「神の子羊ナザレのイエス」を十字架で屠ったのです。十字架で流されたキリストの血によって、世の罪は贖われました。

 イエスが死から甦り、墓から復活したキリストであることを聞いても、イエスを信じることなく、罪を悔い改めることがなかったからです。

 

 神の怒りは、彼らの上にありました。そして、愛もありました。彼らにつらく当たる国々を神はさばかれます。

 

 神の怒りは燃える火のようでした。

 しかし、神の子羊イエスは、父なる神に執り成されました。

 「父よ。彼ら(イエスを十字架につけたユダヤ人たち)をお赦しください。彼ら(神の御子イエスを呪っているユダヤ人たち)は、何をしているのか自分でわからないのです。(彼らは、神が約束されたダビデの子を遣わされたことを悟っていません。彼らは、自分たちの手で、キリストの血を流していることがわからないのです)」(ルカ23:34)

 

 ユダヤ人たちは、先祖の誓いによって、キリストの血を流した責任を負って生まれてきました。それゆえ、彼らの人生は、残酷で悲しい出来事が多いのです。

 

 しかし、ユダヤ人たちの中に、イエスを「神の御子救い主」と告白する者たちが現われました。彼らの悔い改めが、ユダヤ人たちの思いを覆っていた呪いの縄目を解いていくのです。

 

 キリスト者がユダヤ人を祝福するとき、彼らの先祖の誓いの縄目がほぐれていくことでしょう。

 キリストの御心は、彼らが悔い改めて、神に立ち返り、神が遣わされたキリストを知り、「わが主、わが神」と告白することなのです。

 

 なぜならば、キリストはすでに、十字架の上で、彼らの罪を赦しておられるからです。