神は、キリストをイスラエルに現わす前に、主の道を真すぐにするバプテスマのヨハネ(エリヤの霊)をイスラエルに遣わされました。
救いを待ち望むユダヤ人たちに、キリストにお会いする備えをさせるためです。
「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(マルコ1:4,5)
神は、キリストを遣わされました。また、イスラエルをキリストを迎えるために備えさせるために、キリストが現われる(イエスが神の子羊として歩む公生涯にはいる)前に、神は、バプテスマのヨハネを遣わされました。
キリストを遣わされたのが天の神ならば、バプテスマのヨハネを遣わされたのも、同じく天の神でした。
世の終わりにも、同様のことが起こるでしょう。
天からキリストが来られる前に、神は、地上の民を整えるために、ユダの総督(十二部族を一つにするユダヤ人「イスラエルのメシア」)を遣わされることでしょう。
ユダの総督を遣わし、「ふたりの証人」を立てられるのも、イスラエルの神。また、神の御座の右に着座しておられる神の子羊キリスト・イエスを地上に遣わすのも、イスラエルの神。
救いに定められた人たちは、ふたりの証人のことばや十四万四千人のユダヤ人のことばに耳を傾け、メシアのことばとして受け入れ、信じて、聞き従うことでしょう。
キリストの国の民の道を、キリストのために用意するのです。
「彼(バプテスマのヨハネ)は宣べ伝えて言った。
『私(ヨハネ)よりもさらに力ある方(キリスト)が、(自分の)あとからおいでになります。私には、かがんでその方(神にキリストの油を注がれた神の子羊)のくつのひもを解く値打ちもありません。(その方は、いと高き方の子〈神の子〉と呼ばれ、神である主が、ダビデの王座に着く王位をお与えになる方です。キリストは、とこしえにヤコブの家〈イスラエル〉を治められ、また、キリストが治められるその国は終わることのない永遠の御国なのです)
私(バプテスマのヨハネ)はあなたがた(ユダヤ人たち)に水でバプテスマを授けましたが、その方(あとからおいでになるキリスト)は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。』」(マルコ1:7,8)
バプテスマとは、浸すことです。
バプテスマのヨハネは、罪を悔い改めるユダヤ人たちを水に浸しました。
キリストは、罪を悔い改める者たちを聖霊に浸されます。
ノアの箱舟は、大水に浸されて、滅びの世から救い出されました。ノアの箱舟は、水のバプテスマのひな型です。
四十日四十夜降り続いた雨が止み、地上が乾くと、箱舟から出て来たノアとノアの家族は、暴虐の世から救い出してくださった神を礼拝しました。
しかし、ノアの子ハムの子孫に、世を水で滅ぼされた神を憎み、神に敵対する二ムロデが現われました。
水をくぐっても、良心をきよめることはできないのです。
イエスが復活し、天に上られると、父なる神は、神の子羊イエスに、キリストの権威をお与えになりました。聖霊のバプテスマを授ける権威をお与えになったのです。
イエスは、天に上がられる時に、弟子たちに命じられました。
「わたし(神の御子イエス・キリスト)には天においても地においても、いっさいの権威(罪の赦しや裁きや、永遠のいのちを得させる権威など、神の御国の主権)が(天の父から)与えられています。
あなたがたは行って、あらゆる国の人々を(神の子羊イエス・キリストの)弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたし(キリスト・イエス)があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼ら(新しい弟子たち)を教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)
イエスの命令とは、「互いに愛し合うこと」と、「聖霊を受けて平安を得ること」です。愛は結び目として完全なものです。また、生かす御霊である聖霊を受けることは、永遠のいのちを得ることです。
聖霊は、キリストが世から取り去られた後に、父が遣わされる「もうひとりの助け手」であり、真理を教えいのちの道へと導く助け主なのです。
「(パウロは)幾人かの弟子(イエス・キリストを信じた信者)に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』と答えた。
『では、どんなバプテスマを受けたのですか。』と言うと、『(バプテスマの)ヨハネの(水の)バプテスマです。』と答えた。
そこで、パウロは、『(バプテスマの)ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』と言った。
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(イエスの弟子たちが昇天するイエスに命じられたとおり、エルサレムに集まって祈り、聖霊のバプテスマを受ける備えをしている間にも、聖霊が下られて、みなが聖霊に満たされ、自分の国の言語ではなく、聖霊が話させてくださる異言を話し出しました。この時、彼らもまた、聖霊のバプテスマを受けたのでした)
その人々は、みなで十二人ほどであった。(ひとりだけではありません。聖霊のバプテスマを望む人々すべてが、聖霊のバプテスマを受けました。聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリストのお授けになるバプテスマを受けたのです)」(使徒19:1-7)
「ピリポが神の国とイエス・キリストの(御救いの)御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
(魔術師)シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。(ピリポは御霊によって導かれ、また、御霊の力によって神の栄光を現わしていました)
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神の(御救いの福音の)ことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
ふたり(ペテロとヨハネ)は下って行って、(主イエスを信じた)人々が聖霊を受けるように祈った。
彼ら(信仰告白した人々)は主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金をを持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威(キリストの御名の権威)を私にも下さい。』と言った。
ペテロは彼(シモン)に向かって言った。『あなたの金はあなたとともに滅びるがよい。あなた(シモン)は金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。(聖霊が働かれると、神のみわざが現われます。人間なのに、神の御霊によって神のわざをします。それは、隠されていません。癒しや解放、異言や預言、喜びや平安や神の恵みが現われます。シモンは、このすぐれた賜物を手に入れたい。そして、聖霊のバプテスマを授ける権威を持って、自分を高い者にしようとしたのです。しかし、聖霊のバプテスマは、人を高くするために与えられるのではありません。神のしもべとなって神に仕え、生ける神の御力を現わして神の栄光を現わしたたえる者とされ、神に聞き従われたキリストのからだの一部分となるために与えられるのです)』」(使徒8:12-20)
大水から救い出された人類は、再び、暴虐に満ちたものとなりました。世の滅びから救い出されたのに、自分の好き勝手に生きるのです。
罪を犯されなかった神の子羊イエスの血は、世の罪を取り除く贖いの血です。
キリストは、弟子たちに、神の子羊イエスの十字架を覚えるキリストの肉と血の聖餐(すなわち、パンとぶどう酒の聖餐)を記念として行なうように命じられました。
パンは、キリストの裂かれた肉(からだ)の象徴です。神の子羊イエスの肉が裂かれて、私たちの罪は赦されました。
ぶどう酒は、キリストの流された血(いのち)の象徴です。神の子羊イエスの血が流されて、私たちの罪は贖われ、神に義とされました。
キリストの十字架の記念する聖餐は、肉が砕かれ、肉(自我)に死んだことと、キリストの血(いのち)を受けて、死から復活する神の子どもとされる特権を得たことを記念します。
キリストの血は、私たちの良心をきよめて死んだ行ない(火で焼かれる肉の行ない、すなわち、罪)から離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(生かす御霊を受ける用意ができて御霊の器とされるならば、真理の御霊によって教えられ、御霊の賜物によって神に仕え、霊とまことによって神を礼拝する、神の子どもに造り変えられていくのです)
聖霊のバプテスマを受けることは、神の子どもに造り変えられることです。
信仰告白と水のバプテスマによって、神の子どもとされる特権を得た人は、聖霊のバプテスマを受けることで、神の子どもに造り変えられて行くのです。
キリストのバプテスマは、天上のバプテスマです。その人の魂を天上の御霊に浸すのです。
御霊に浸された魂は、イエス・キリストを愛する愛と信仰を受けて、栄えに満ちた喜びと平安に満たされます。
御霊のお与えになる信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。
終わりの時に立つメシアは、この聖霊のバプテスマによって、永遠のいのちを得させるのでしょう。
キリストのバプテスマは、聖霊のバプテスマであり、永遠のいのちを得させるバプテスマなのです。