ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

健やかであれ

 

 多くの人が熱中症のような症状を感じることがあるのではないかと思います。

 熱中症という診断をもらったこともなければ、熱中症だという意識はないのだけれども何か意識が遠のくような感覚を持つ瞬間があったり、気分が悪いと言うほどではないけれども何かモヤモヤとすっきりとしなかったり、めまいのような立ち眩みのような平衡感覚を失うような不思議な感覚に一瞬襲われたりと、身体の不調を感じることがあると思われます。

 

 頭というか身体というか、ふわっとするとき、とっさに意識が働きます。倒れないようにしなくては、と考えます。そして、まず、すべての動きを止めます。立っていたら座らずにそのまま立ち尽くす。そして、鼻から息を少しずつゆっくりと長く吸っていきます。そして、口をすぼめて長くゆっくりと息を吐き出します。頭の中のもやが取れてはっきりとするまで、静かにゆっくりと何度も繰り返します。

 

 意識的にゆっくりと行ないます。鼻と口だけが働き、身体のほかの機能はストップした状態です。

 深呼吸のように大きな動作をすることなく、ゆっくりと音が立たないほど静かに繰り返します。三回、四回と繰り返すうちに、少しずつ酸素が巡り、頭のもやも取れて普通の状態に戻ります。

 それから、水分をとって身体をしばらく休めると(休まなくてもよい時もありますが)、回復します。

 

 人は、鼻からいのちの息が吹き込まれて生きものとなった、と聖書にあります。

 鼻から息をゆっくりと吸い、呼吸を整えることで、身体の機能はもとに戻るようです。

 

 人の肉体は、呼吸によって全身に酸素が回って、すべての器官を生かしています。酸素を運ぶ血液はとても大切な働きをしています。

 神は、「血はいのちだ。」と言っておられます。

 

 「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」(レビ17:14)

 

 「肉のいのちは血の中にあるからである。

 わたし(神)はあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これ(生贄の動物の血)をあなたがた(神の祭司の国民であるイスラエル)に与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)

 

 血が「いのち」のひな型であり、いのちは血によって贖われる、とされました。それゆえ、祭壇にささげられる生贄の動物の血が、人の罪の身代わりとなって罪を贖い、神に罪の赦しを得るというのです。

 

 血は全身を行き巡り、すべての部分を生かします。血の中にいのちがあるからです。そして、呼吸は、そのいのちを血に吹き込んでいるようです。

 

 最初の人アダムは血によって生き、キリストの血によって、罪が贖われました。

 アダムのいのちは、神の子羊イエス・キリストの血によって贖われました。

 

 罪あるままのアダムは、罪の報酬である「死」が確定していますが、神の子羊イエス・キリストの血によって罪の贖われた第二のアダム(罪を一度も犯さず神のことばと一つである神の子羊〈ナザレのイエス〉の血の贖いを信じる者、すなわち、罪を悔い改めて神と和解した人がキリストのバプテスマ〈生かす御霊〉を受けて、復活のキリストのからだの一部分となる魂)は、永遠のいのちを得させられます。

 

 肉の人のいのちは血にありました。

 しかし、霊の人のいのちは御霊にあります。新しく生まれた人は、御霊によって生まれたのです。

 

 肉の人のからだは、一人ひとりのからだのうちにある血が生かしています。

 御霊の人のからだは、キリストのからだのうちにある御霊が生かしています。

 

 肉の人は、個別に分かれており、一つになることはできません。信仰によって一つになりますが、からだは一つになることができません。

 キリストに肉のからだはありません。死から甦られたからです。キリストは、御霊によって生まれた「新しい人」の初穂なのです。

 

 御霊の人は霊です。一つの御霊によって、一つになります。御霊の人はもはや個別のからだではありません。キリストをかしらとするキリストのからだの一部分なのです。

 キリストのからだは、肉のからだではありません。神の子羊イエス・キリストを死から甦らせた「聖霊(生かす御霊)」を飲む魂たちのからだです。神の子どもに新しく造り変えられる魂たちのからだです。御霊によって生まれ、死から復活する新しい創造です。

 

 御霊を受けた人のいのちは、御霊にあります。肉の呼吸でもなく、血でもありません。御霊御自身がいのちなのです。

 御霊のいのちは、神を賛美し、神に祈ります。神の霊との交わりが、キリストのからだの呼吸でありいのちなのです。

 

 身体に不具合が出たとき、呼吸を整えて、回復に導かれるのは、肉体がいのちの息によって生きているからです。不規則な息を整えることで、いのちの息の流れを健やかにすることでしょう。

 

 御霊の人に不具合が出たとき、静まって異言を祈ると、魂が息を吹き返します。自分の知性の祈りではなく、御霊によって祈ることで、全身に御霊が行き巡ってくださいます。

 

 そして、御霊が全身をチェックして不具合が生じている原因を教えてくださることもあるでしょう。御霊は危険を知らせ、御霊を消すものから離れること、また、罪を悔い改めること、意識をイエスに向けることなどを、思いのうちに働いてくださるかもしれません。

 

 からだが弱っている時、霊が弱っている時は、動かないほうがいいと思います。動きを止め、静まることで、回復の糸口をつかむことができるようです。

 静かでなければ、目に見えない方の声、真理の御霊の声は聴けず、また、心がざわついていると、冷静に捉えることができないからです。

 

 イエスは復活して弟子たちに現われました。師である主イエスが墓に納められて、弟子たちは不安と恐れでいっぱいでした。

  

 「弟子たちがいた所では、(イエスを十字架につけて殺した)ユダヤ人たちを恐れて(ユダヤ人たちに見つからないように)戸が閉めてあったが、(死から復活のからだで甦られた)イエスが来られ、彼ら(弟子たち)の中に立って言われた。

 『平安があなたがたにあるように。』

 こう言ってイエスは、その手と脇腹(の傷)を彼ら(弟子たち)に示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:19、20)

 

 イエスは、彼ら(復活のイエスの姿を見て喜ぶ弟子たち)に息を吹きかけて言われました。

 「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)

 

 創造主である神は、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。アダムの誕生です。

 

 救い主である神の御子イエス・キリストは、十字架において肉に死んで墓にはいり、死から甦られ新しいからだ(霊のからだ)で墓の中から復活して、イエスの弟子たちに、キリストの息を吹きかけられました。キリストの息は、キリストの生かす御霊であり、聖霊です。御霊を受ける者は、新しい創造を受けて、キリストに似た者に造り変えられます。第二のアダムの誕生です。

 

 イエスの弟子たちは、聖霊のバプテスマを受け、生かす御霊を受け取りました。生かす御霊は、魂を癒し、真理を教え、永遠のいのちを得させる、キリストの息です。

 キリストの息、すなわち、生かす御霊は、キリストのからだのいのちです。

 

 真理の御霊を受けた者は、御霊の賜物によって神の国の働きをし、キリストのからだの一部分となります。

 パウロは言います。

 「もはや私(パウロ)が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

 

 キリストは、終わりの日に、キリストのからだである魂を集められます。一つの御霊により、一つのキリストのからだとなる魂たちです。

 

 パウロは彼らに言います。

 「愛する者よ。あなたが、魂に幸い(御救い)を得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(三ヨハネ2)

 

 口語訳では、

 「愛する者よ。あなたの魂がいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、また健やかであるようにと、私(パウロ)は祈っている。」