ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

使徒二十五章 ローマ人はパウロに罪を見つけられなかった

 

 カイザリヤに来たアグリッパ王に、州の総督フェストは言いました。

 「私(州総督のフェスト)がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男(パウロ)のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました。

 そのとき私は、『被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない。』と答えておきました。

 そういうわけで、訴える者(エルサレムから下って来たユダヤ人)たちがここに集まったとき、私(フェスト)は時を移さず、その翌日、裁判の席に着いて、その男(パウロ)を出廷させました。

 訴えた者たちは立ちあがりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。

 ただ、彼(パウロ)と言い争っている点は、彼ら(ユダヤ人たち)自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。

 このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼(パウロ)に『エルサレムに上り、そこで、この事件について裁判を受けたいのか。』と尋ねたところが、パウロは、皇帝の判決を受けるまで(パウロを殺そうと彼のいのちを狙うユダヤ人たちから)保護してほしいと願い出たので、彼(パウロ)をカイザルのもとに送る時まで守っておくように、命じておきました。』」(使徒25:15-21)

 

 ローマ帝国の属州で起こっていることは、ユダヤ人の間の、ユダヤ人の宗教に関する問題でした。

 ユダヤ人ではない総督には、この問題をどう取り調べたらよいのか、見当がつきません。

 

 パウロの主張は、十字架刑で死んでしまったイエスは生きているという事でした。(パウロは、イエスの御名を迫害するサウロであったとき、彼に復活されたキリスト・イエスが現われました。そして、ナザレのイエスがキリストであったことを知ったのです)

 ユダヤ人たちは、パウロを一刻も生かしてはおけぬ、という勢いです。ユダヤ人たちは、パウロに、多くの思い罪状を申し立てましたが、それを証拠立てるものはありませんでした。(サウロが復活のイエスに出会ってイエス・キリストの弟子になると、一緒にイエスの弟子たちを迫害しひどい目に遭わせていた仲間のユダヤ教徒たちはサウロの敵となりました。もはや兄弟ではありません。サウロが、イエスゆえに、イエスの弟子たちをユダヤ教徒の敵とみなしたように、イエスの弟子となったサウロは、ユダヤ人たちの敵となったのです。ユダヤ人たちはイエスを殺したように、パウロに対して激しい殺意を抱きました)

 パウロは、ユダヤ人の律法に対しても、宮(神の神殿)に対しても、またローマ皇帝カイザルに対しても、何の罪も犯していないようです。

 

 フェストは、アグリッパ王とともに、彼(パウロ)を調べて、皇帝の判決に際しての罪状を捜したい、と考えました。

 

 ユダヤ人を処刑にする権限は、州の総督にあります。

 イエスを処刑することができたのは、総督ピラトの許可が出たからでした。

 しかし、ピラトには、イエスに罪を認めることができませんでした。それゆえ、イエスを処刑する許可は出すが、処刑するのはピラトではないこと、そして、ピラト自身には、イエスの血の責任がないことを表明しました。

 

 ユダヤ人たちは、責任はユダヤ人自身が取るから、イエスを十字架につけるようにと、ピラトに強く要求したのです。

 イエスに罪を認めないピラトが書いた罪状書きは、『ユダヤ人の王 ナザレのイエス』でした。イエスの十字架には、「これはユダヤ人の王ナザレ人イエス」と掲げられていたのです。

 ユダヤ人たちは、その罪状書きを見て、ピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言いましたが、受け入れられませんでした。

 

 総督ピラトがイエスに罪を認めることができなかったように、総督フェストもまた、イエスのしもべパウロに罪を認めることができませんでした。

 

 「フェストはこう言った。

 『アグリッパ王、ならびに、ここに同席の方々。御覧ください。ユダヤ人たちがこぞって、一刻も生かしておけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここ(カイザリヤ)でも、私(フェスト)に訴えて来たのは、この人のことです。

 私としては、彼(パウロ)は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼(パウロ)自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちら(エルサレム)に送ることに決めました。

 ところが、彼(パウロ)について、わが君(カエザル)に書き送るべき確かな事がらが一つもないのです。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王よ、あなたの前に、彼(パウロ)を連れてまいりました。取り調べをしてみたら、何か書き送るべきことが得られましょう。

 囚人を送るのに、その訴えの個条を示さないのは、理に合わないと思うのです。』」(使徒25:24-27)

 

 ユダヤ人たちは、パウロを訴えます。

 しかし、総督には、パウロに罪を見つけることができません。

 

 ローマ人には、イエスにも、パウロにも、罪を見つけることができませんでした。

 彼らには、死罪に当たる罪が見当たらないのです。

 

 しかし、ユダヤ人たちは、「イエスを十字架につけろ。」と叫び、パウロに思い罪状を申し立てるのでした。

 

 このことは、ユダヤ人の彼ら自身の宗教に関することで、異邦人には良いとも悪いとも判断がつきません。

 ただ、人の倫理や常識においては、イエスの中にも、パウロの中にも死刑に当たる罪を見い出すことはできないのです。

 

 神の知恵です。

 イエスの時代も、パウロの時代も、イスラエルは、ローマ帝国の属州でした。ユダヤ人たちには、だれをも裁く権限はなく、また、死刑を執行する権限はありません。

 ローマ人の許可がなければ、執行できません。

 

 神は、キリストを処刑するのを、神の祭司の国民ユダヤ民族の手にゆだねられましたが、それを許可するのは、異邦人でした。

 ユダヤ人たちがキリストを十字架につけましたが、異邦人も共につけたということです。キリストはユダヤ人の救い主だけではなく、全人類の救い主だからです。

 

 ユダヤの律法の下にいない異邦人には、イエスにも、パウロにも罪を見出すことができません。

 律法の下にいるユダヤ人たちは、イエスもパウロも律法の違反者だと言います。しかし、ユダヤ人たちが「私たちの神」と呼んで仕えているイスラエルの神は、イエスを忠実な者とし、パウロを義とされるのです。

 

 現在のユダヤ教徒の中には、イエスはユダヤ人に神のことばを教えるラビ(先生)と捉える人々も出て来ているようです。イエスは、死刑に当たる人ではない、と認めることになります。

 

 ユダヤ人たちが、ナザレのイエスを調べ直したならば、死刑に当たる罪はなかったと気づくのでしょうか。