ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

地は耕される

 

 幻を見ました。

 天上に、横たわっているものがあります。

 ひとりの御使いがそれを起こすと、真っすぐに立てました。

 旗竿かな、と思っていると、それは、どうやら、闇の海を照らす灯台のような働きをするもののようです。闇の世を照らす世界の光、真理を知らせる光が、天から、ユダヤ人と異邦人の区別なく、また、どんな宗教の人にも、あらゆる国、あらゆる民族に注がれるようです。

 

 聖霊の雨が注がれる用意はできつつあるようです。

 使徒の時代に、初めの雨が降り注ぎました。一日に三千人ほどの人が、聖霊の力によって、イエス・キリストを信じました。

 

 聖霊の雨は、まずイエスの弟子たちに注がれました。イエスの弟子たちは、イエスに命じられたとおり、エルサレムに集まって聖霊の下るのを祈り待ち望みました。

 そして、御父の約束どおり、聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出しました。彼らは異言を話し、キリストの御霊が下られたのを知りました。

 

 イエスとともに居た頃の弟子たちは、イエスから神のことばを聞く肉の人でした。

 しかし、聖霊を受けた弟子たちは、御霊から真理を教えられ、イエスのことばを思い起こさせられるのです。彼らは、聖霊の器であり、神の宮となって、イエスと同じ御業を行ないました。

 

 「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。(十字架につけられたナザレのイエスは神の御子キリスト〈救い主〉です)』と言うことはできません。」(第一コリント12:3)

 

 聖霊がイエスの弟子たちを通して、キリストと同じ御業を現わし、また、聖霊に満たされると、キリストがわかるのです。

 

 使徒たちのことばを聞いて、キリストを十字架につけて殺してしまったことを知ったユダヤ人たちは、心を刺されて、使徒たちに言いました。

 「兄弟たち。(神が遣わされたキリストを信じないで十字架につけてしまった)私たちはどうしたらよいでしょうか。」

 

 「そこでペテロは彼らに答えた。

 『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(神から、天に受け入れられる信仰であることの承認としての御霊を受けるでしょう)

 なぜなら、この約束(その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。〔ヨエル2:28,29〕)は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主(唯一の生けるまことの神)がお召しになる人々に与えられているからです。』

 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって、あかしをし(よく言い聞かせ)、『この曲がった時代から救われなさい。(滅びに向かう世からのがれなさい)』と言って彼らに勧めた。

 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。 

 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:38-42)

 

 聖霊が下られると、人々は悔い改めと、信仰が与えられ、心の向きが天に向かうのです。

 

 教会に通い、聖書のことばを聞いても、キリストを信じるまで、時間がかかります。

 私自身、イエスがとても優しく愛の人だということは理解できますが、どうしても、その先には行けませんでした。イエスは、私たちと同じ人間であると思っていたのです。「イエスは神の御子である。」ということがどうしても信じることができませんでした。

 

 「神様。私はイエスがキリスト(救い主)であるということは信じますが、イエスが神の御子であることがどうしても信じられません。イエスが神の御子ならば、どうか、私がもはや疑うことのできないくらいに、はっきりと信じることのできるしるしをください。」と祈りました。

 すると、私にわかる方法で、しかも超自然的な天のしるしをもって、有無を言わせない信仰を与えてくださいました。信じなかった自分自身を悔い改めるほどに、イエスが神の御子であることは揺るぎのないものとなったのです。

 神のことばではありません。人から受けた教えでもありません。理屈ではなく、私の霊が捉えたのです。

 

 神は、わたしの切実な祈りに応えてくださったのです。聖霊の働きでした。

 神の霊によって、私は、「イエスは主です。」と告白する者とされました。

 

 もう一つの幻を見ました。

 今度は、地が地中深くから掘り返されて行くのを見ました。

 神は、聖霊を注ぐための備えを地上に初めておられるのです。福音の種を蒔くのに、良い畑を整えられるのでしょう。

 

 聖霊を注がれても、聞く耳のない人には届きません。また、心が主に会うように整えられていなければ、主が来られても見過ごすことでしょう。

 

 今までの時代は、真理の光は隠されていました。まだ、時ではなかったからです。

 しかし、世界中に真理の光を輝かせるときは近づいているようです。キリスト教会内に、まず、注がれるのではないでしょうか。

 そして、真理を求めるすべての人に注がれるのでしょう。

 

 「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」(イザヤ44:3)

 

 神は、いのちの水の届かなかった潤いのない魂に、また乾いた心に、生ける水の川(聖霊)を注ぎ、キリストを死から甦らせた生かす霊、真理の御霊(永遠のいのち)を、ユダヤ人にも、クリスチャンにも、また、真理に飢え渇く者たちにも注ごう。

 

 神は、真理の光を輝かせたときに、光に集まる人々の心を耕されることでしょう。

 地を耕すのは、地味な働きです。まだ、種の用意はありません。種を蒔くのに良い地を整えるのは労苦です。どんな種を蒔くのか、どのような賜物が分け与えられるのかは、神がお定めになられます。

 

 神の働き人は、黙々と地を耕します。昨日も今日も明日も耕すだけです。

 それは、執り成しの祈りです。一人ひとりの心を耕すのは、執り成しの祈りです。人間が口で教えるものではないようです。

 神御自身が働かれます。一人ひとりの歩みの中で、困難に陥らせたり、心がえぐられるような経験をさせたり、心をぐちゃぐちゃにされるでしょう。

 

 それは、彼らを拒絶しているのではなく、彼らが天からのいのちを得るため、永遠のいのちの福音を信じる信仰を心に留め、福音の種の根を生やし信仰を育てる良い畑とするためです。

 

 キリストにあって、その永遠の栄光の中に招き入れてくださるためです。

 深く掘り起こされた地は、根を伸ばしやすくなります。また、地中の雑草の根や石ころなどが取り除かれた地は、健やかな信仰を育てます。

 

 天では、隠されていた真理を世界中に知らせ、信仰を与える聖霊を注ぐために、聖徒たちの祈りが積み上げられています。

 

 地上では、救いに定められている人たちが心深く取り扱われて、痛みと悲しみと懺悔によって、心が揺さぶられ、目に見えるものへの思いが砕かれ、確かなものを求めて、目に見えないものへの扉は開き、魂の動きをとらえつつ、心の深みを体験している人もいることでしょう。