「私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。(地上に生きている間、主を仰いで、主とともに歩もう)
『私は大いに悩んだ。』と言ったときも、私は信じた。(世に生きることは、悩みの多いものです。しかし、私の心は悩みに押し流されることなく、苦難の中でも私とともに居てくださる生けるまことの神、主に拠り頼み、主に祈った)」(詩篇116:9,10)
「死の綱が私を取り巻き、陰府(よみ)の恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
そのとき、わたしは主の御名を呼び求めた。
『主よ。どうか私のいのちを助け出してください。』
主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神は憐れみ深い。
主はわきまえのない者を守られる。(神の導きは完全で、わきまえのない者を御自分の御腕に抱かれる)私がおとしめられたとき、私をお救いになった。(私がおとしめられたとき、神に叫ぶと、神は、わたしを迫害する者から救い出してくださった)
私の魂よ。おまえの全き憩いに戻れ。(魂の父の覆いの中に〈イエス・キリストの御名の中に〉はいれ)主はおまえ(の魂)に、良くしてくださったからだ。(魂よ。うなだれてはならない。信仰を失ってはならない。おまえを救われた主は、おまえの罪を贖い、天の御国にはいる者としてくださったからだ)
まことに、あなた(主)は私の魂を死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。(神の御恵みは、尽きません。主は、主を告白した魂をお見捨てにはなりません。御霊によって耐える力と勝利する信仰を置いてくださいました)」(詩篇116:8)
キリストを信じることは、霊の戦いの中にはいることです。
なぜならば、この世は罪の報いの死を受けており、罪の縄目に縛られています。死から救い出されるということは、この世の君(悪魔)に反逆することになるからです。
イスラエルは、どのようにして、神の祝福を受け取ったのでしょうか。神と格闘し、祝福を受けるまでは神を決して離さなかったヤコブの信仰によって、神の祝福を受け取りました。
ヤコブは弟であり、長子の権利のない者でした。しかし、神の契約と祝福の価値を知るヤコブは、兄から長子の権利を買い取りました。兄エサウは、神の契約の価値を知ることのない愚かな者でした。長子の権利を買い取ったヤコブは、カナンの地の相続人となりました。
ヤコブには、敵が多いです。祝福を兄エサウに成りすまして、父イサクから受け取ったヤコブは、兄から憎まれ、父からも良い評価を得ません。ヤコブに殺意を抱く兄エサウを避けるために、故郷を離れ、母リベカの故郷に逃げて伯父のもとに身を寄せました。伯父は量りを変えては、いつもヤコブを騙しました。これらのことにより、ヤコブは謙遜を学びました。自分の力ではなく、神により頼む者として、少しずつ造り変えられていったのです。
実際、キリストの弟子になることは、悪魔の敵となることです。悪魔は聖徒らのいのちを狙います。信仰を奪い取って、永遠の火の池に閉じ込めようと攻撃してきます。
死の陰の谷を歩む体験もするでしょう。世の人々からは憎まれることもあるでしょう。キリストがユダヤ人からあざけられたように、同胞からあざけられ敵対視されるかもしれません。
もし、迫害され、霊的な攻撃を受けるならば、神の者とされている証であるのかもしれません。悪霊どもは、神の者のうちにある神の御子イエスの御名とキリストの御霊に攻撃しているのです。
イエスは言われました。
「義(真理)のために迫害される者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために(イエス・キリストを信じるゆえに)、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)
これらは、信仰が進んだ人たちの霊の戦いです。この戦いにはいるのは、聖霊のバプテスマを受けた人々です。
聖霊のバプテスマを受けていなくても、イエス・キリストを信じている人たちは大勢います。
彼らはみな、内なる戦いをしています。聖霊のバプテスマを受けている人でもそうです。内なる戦いは、魂の救いに付き物です。
雑草は種を蒔かなくても自然に生えて来ます。取っても取っても次々と生えて来ます。土の中にすでに種が存在しているからです。
雑草を取らないと、蒔いた野菜の種の成長を妨げます。野菜の種は土の中に入っていたものではなくて、人が蒔いたものです。
そのように、生まれた時からすでに罪の種は人の中にあります。自分の思い通りにならなければ癇癪を起したり、逆らって攻撃的になります。反逆の根があるからです。
最初の人アダムの子カインは、弟の正しいのを妬みました。
神は、弟アベルの良い心で持って来た献げ物に目を留められ、兄カインの横着な心で持って来た献げ物には目を留められませんでした。
「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
そこで、主は、カインに仰せられた。
『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、(怒りで)顔を伏せているのか。
あなた(カイン)が正しく行なったのであれば(正しい心で行なったのであれば)、(主に)受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。(怒りの霊、憎しみの霊たち悪霊どもは、カインの心に入り、カインを支配しようと待ち伏せている)
だが、あなたは、それを治めるべきである。(罪の根がうずくであろうが、あなたはあなたの感情をコントロールして、それが罪の実を結ばないようにしなければならない。決して罪に支配されてはいけない。肉の欲望に従うのではなく、良心に従って罪の根を張らせないように努力し、罪の実を結ばないようにしなさい)」(創世記4:5-7)
アダムが神の命令に背いたことで、罪の種が人の中に入り込みました。
善悪を知る知識の木の実を食べて、肉の目が開かれて、自分自身が主人となってしまいました。魂の主であり、まことの主人である神の、いのちの恵みを自ら閉ざし、神を仰がない者となってしまったのです。
エデンの園から追放された人は、罪を犯す性質(原罪)を持つ者となり、罪あるエバから生まれる人はみな、生まれつき原罪を持つ者として生まれました。
そして、早くも第一子カインが人殺し(弟殺し)の罪を犯し、いのちの根源のいのちから外れた人は死んだ者となったことが、明らかになりました。
人の心は、葛藤します。妬みや怒りや憎しみなど破壊者(悪魔)の与える感情と、いのちの主が造られた良心とが、せめぎ合っています。
キリストの血によって神と和解をした魂は、良心が目覚めます。それゆえ、内なる戦いを経験します。
罪を知らなかったときは、平気だったことも、聖書を知り、神のことばを知ると、心の中で葛藤が始まります。
神を知らないで生きていたときには、知ることのできなかった罪も、今では良心が捉えるようになったからです。
神の戒めを知ると、数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、あらゆるむさぼりを引き起こします。神の戒めを知らなかったときよりも、苦しみは増します。
パウロは言います。
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私は善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:18-20)
パウロは、内なる戦いの結果、自分の中に悪が宿っているという原理を見い出しました。原理ですから、この内なる戦いは、生きとし生けるものすべての戦いであること、そして、パウロは、人はみな悪を宿している、という事実に辿り着いたのでした。
心の律法(目覚めた良心)に従うか、心の律法に対して戦いをいどむ罪の律法に翻弄されてしまうのか。
心の律法に戦いをいどんで来る、自分のうちにある悪(罪)に打ち勝つために、神に助けを求めましょう。
内なる戦いは、他人に言わないだけで、みなが戦いつつ、信仰の道を一歩一歩歩んでいるのです。
内なる戦いが起こることは、聖なる者とされている証でもあるのです。