「主(全能の主、すべてのものを造られた父なる神)は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたし(神のひとり子)を得ておられた。
大昔から、初めから、大地の始まり(地球の始まり)から、わたし(御子)は立てられた。
深淵もまだなく(天使長ルシファーが神に忠実に仕えており、天の秩序に乱れはなく、闇のないとき、すなわち、悪魔が存在していなかったとき)、水のみなぎる源もなかったとき(天地万物の創造の源である水が存在していないとき、すなわち、闇に「光あれ。」と命じられる以前)、わたし(神のひとり子)はすでに生まれていた。
山が立てられる前に、丘より先に、わたし(神の御子)は生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初の塵も造られなかったときに。(人はこの塵から造られた)
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。(闇の中に創造される星々、宇宙が創造されるとき、神の傍らに神のひとり子はいた)
神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め(悪魔の罪の裁きを定め)、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき(水の領域と乾いた陸の領域との間に境を定められたとき)わたし(神の御子)は神(父なる神)のかたわらで、これを組み立てる者であった。(神の御子は、神に忠信な神のことばであり、愛される者であった)
わたし(神のひとり子)は毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地(地球)、この世界(神の慈しみにより、神のひとり子とともに管理する「人」のために、種(しゅ)にしたがって造られた被造物が生きる地球)で楽しみ、人の子ら(神の御子と一つとなる人の子ら、すなわち、受肉した神の御子〈神の子羊キリスト・イエス〉に聞き従う第二のアダム、すなわち、新しい創造のキリストのからだ)を喜んだ。」(箴言8:22-31)
神の世界には時間や空間の拘束はありません。地球のような現象はなく、霊の世界だからです。肉体や物体はありません。すべてのものは、霊体であり、永遠のものです。
それゆえ、創造された神は、闇に天地万物を造られた現象の世界も、また、神の御子キリストによる新しい創造も、御霊による永遠のいのちの神の子どもたち〈神のひとり子とともに天の御国を相続するキリストの兄弟となる神の子どもたち〉も、同時にご覧になることができると思われます。
聖書には、そのような時空を超えたそれぞれの出来事が、まるで、同時のことであるかのように、書かれています。
聖書は、キリストは、受肉される前に神のひとり子として、神の栄光の霊体で存在していたことを証言しています。神の御子は、父なる神のかたわらにおられました。神の御子の姿は、人の子として来られたイエス・キリストの受肉前の姿です。キリストの正体は、天地万物を造られた全能の神、創造主のひとり子です。
神の御子が人の子イエスとなられて、イスラエルに遣わされるよりも六百年程前の預言者エゼキエルは、イスラエルの王として来られるキリストのことを預言しています。
「彼ら(イスラエル)に言え。神である主はこう仰せられる。
見よ。わたし(主)は、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地(先祖から受け継いだカナンの地)に連れて行く。
わたし(主)が彼ら(イスラエル)を、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき(分裂した南ユダ王国〈二部族〉と北イスラエル王国〈十部族〉を、一つのイスラエル王国とする〈十二部族に回復する〉とき)、ひとりの王(ダビデの子、キリスト)が彼ら(十二部族)全体の王となる。彼ら(イスラエル)はもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。
彼ら(ユダヤ民族)は二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。(彼らのさまよっていた心は、イスラエルの神に結び直される。彼らは、「先祖の神、あなただけがイスラエルの神である。」と告白して、神が遣わされた主キリストに、聞き従う者とされる)わたし(主)は、彼ら(イスラエル)がかつて(不信仰と不従順の)罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
わたしのしもべダビデ(ダビデの子イエス・キリスト)が彼ら(イスラエル)の王となり、彼ら全体(イスラエル十二部族)のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。(かつて、イスラエルが頼みとするモーセが「私(モーセ)のように、神が遣わされるひとりの預言者に聞き従わなければならない。」と命じたひとりの預言者が、十字架の主イエス・キリストであったことを悟ったユダヤ人たちはみな、神が遣わされたイエス・キリストに聞き従い、モーセの律法に忠実であろうとしたように、キリストのおきてを守り行なう。キリストは、イスラエルの王となり、ユダヤ十二部族を一つにして養う牧者となる)
彼ら(イスラエル)は、わたしがわたしのしもべヤコブ(イスラエル)に与えた国、あなたがた(ユダヤ民族)の先祖が住んだ国(アブラハム、イサク、ヤコブが葬られた地であり、イスラエル王国が建てられた地、ダビデの子孫に神の御子キリストが遣わされた地、また、神の子羊イエスが十字架につけられて血を流し、死から甦られた、イスラエルの地)に住むようになる。(神がアブラハムに与えると約束されたユーフラテス川からナイル川までのカナンの地を、神が「アブラハムの子孫」と呼ばれるイスラエルが相続する)そこには彼らとその子らとその子孫たちがとこしえに住み、わたしのしもべダビデ(ダビデの子キリスト)が永遠に彼ら(とこしえのイスラエル)の君主となる。(キリストがイスラエルの王となって、ダビデの王座に着座する)
わたしは彼ら(イスラエル)と平和の契約を結ぶ。(神は、イスラエルの罪をすべて赦し、キリストの国民、義の民とする)これは彼らとのとこしえの契約となる。(イスラエルの心は、イスラエルを贖う主とひとつとなる)わたしは彼らをかばい、彼らを増やし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。(彼らは御霊の住まいとなり、神の子どもとされる)
わたしの住まい(神の神殿、すなわち、神の御霊の住まい)は彼ら(イスラエル)とともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。(諸国の民がイスラエルを憎みイスラエルを捨てても、とこしえの神がイスラエルを救い、神の民として立たせられる)」(エゼキエル37:21-28)
現在、ユダヤ人たちの多くは、神が遣わされたキリストが見えていません。モーセが命じた聞き従わなければならない預言者(キリスト)に聞き従っていません。彼らの思いは暗く、神の御心を痛めています。
しかし、神は、ダビデの子イエスが生まれる六百年も前に、キリストがイスラエルの王としてダビデの王座に着座し、イスラエルの地に十二部族のユダヤ民族が集められてイスラエル王国が回復するのを御覧になっておられました。
エゼキエルの時代には、二部族と十部族は分裂していました。アッシリアに捕囚された十部族は諸国に離散していました。エゼキエルは、十部族の存在を聞いてはいましたが見たことはなかったのかも知れません。
また、二部族もバビロンに捕囚され、イスラエルは国も民も欠けのある状態でした。イスラエルの民が十二部族揃った国の回復を見たことのない、また、想像することもできないようなエゼキエルに、神は、その幻を見せられたのです。
旧約聖書に書かれていることは、神の御子についてでした。そして、その神の御子は、肉体を持つ人の子イエス・キリストとして、イスラエルに遣わされました。
イエス・キリストは、聖書が書かれる以前からおられる、神のひとり子なのです。
新約聖書にイエスが出て来て、旧約聖書には出てこないと思うことは大間違いです。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。(イスラエルを救うために生まれる)
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。(ユダヤ民族からキリストが出る)
主権はその肩にあり、(神がイスラエルにお与えになるひとりの男の子は主権を持つお方です)
その主権は増し加わり、その平和は限りなく(神はそのひとりの男の子の主権〈罪を取り除くキリスト〉によって人の罪を赦し、神は神に背いた人と和解される)、ダビデの王座に着いて(神から、イスラエル王国の王位が与えられて)、その王国(永遠に生きる者たちのとこしえのイスラエル王国)を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。(イスラエルの王キリストは、国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下し、また、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむち〈正義のことば〉で国を打ち、くちびるの息〈憤り〉で悪者を殺す。神がこの主権を立て、これを保たれる)今より、とこしえまで。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6,7)
「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)
神がイスラエルにお与えになるひとりの男の子(神の御子キリスト)は、神が私たち〈とこしえのイスラエル〉とともにおられるしるしなのです。
旧約聖書の預言は、ことごとく、イエス・キリストにあって成就しています。