「わたし(主イエス)はまことのぶどうの木であり、わたしの父(創造主)は農夫です。
わたしの枝(キリストのからだの部分)で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがた(イエスの弟子たち)は、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(イエスのことばは、神のことばです。イエスのことばを聞いて従う者は、神のことばの中にある者です。イエスのことばを聞いて、イエスから離れて行く者は、神のことばに繋がろうとしない者です。最初の人アダムは、神の命令にそむき、神のことばから外れて、死ぬ者となりました。人はだれでも、おぎゃあと生まれた時から死に向かって生きています。すべての者が行き着く所、それは死です。すべての者は女から生まれ、いのちの息を吹き込まれて生きるものとなります。そして、肉体からいのちの息が出て行くと、血液の流れは止まり、死んだ者となって腐敗します。しかし、神は、死んだ人を生かそうと、主イエス(神のひとり子)を遣わされました。そして、肉体を持つ人の子となられた神の御子は、死と死後の裁きが定まっている罪人に、生きるためのみことばを語られました。「死んでいた人を生きた人とする」ための定めは、神のことばに立ち返らせることです。主イエスは、神のことばを語られました。この世のことばではなく、天上のことばを語られたのです。アダムの背信によって神のことばから外れてしまった人類は、天から遣わされた「いのちを与える主イエス・キリスト」のことばを信じ、イエスに聞き従うことによって、神と和解するのです。この信仰(イエス・キリストを信じる信仰)は、神が滅びゆく魂を救うために用意された、和解の方法です。主イエスのことばを聞いて、神のことばを心に据えた者は、いのちの根源である神に再び繋がる者とされます。神に繋がる魂は、きよいのです)
わたし(イエスのことば)に留まりなさい。わたし(救い主イエス)も、あなたがた(イエスのことばに留まる者)の中に留まります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがた(イエスの弟子たち、すなわち、キリスト信者)も、わたし(イエスのことば)に留まっていなければ、実を結びません。(枝は木から養分を得て実を結ばせます。木から切り取られた枝は実を結ぶことができません。実を結ぶ養分を木から受けることができないからです。しかし、木に繋がる枝は、実を結びます。同様に、イエス・キリストのことばを聞いて信仰告白しても、離れて行く人はキリストに繋がりません。キリストに繋がらない人には、キリストからのいのちが流れて来ないのです。その人のうちには、キリストのいのちはありません。キリストのいのちのない者は、神に繋がっていないのです)
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたし(イエスのことば)に留まり、わたし(イエスがお与えになる生かす御霊、キリストの御霊)もその人の中に留まっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(イエス・キリストのいのち、すなわち、キリストの御霊【真理の御霊】によって生きている人は、キリストと同じみわざをします。神のことばを語り、預言をし、病を癒し、悪霊を追い出すなど、イエスがされたみわざを行なった使徒たちのように、御霊の力で、神の栄光を現わします)わたしを離れては(キリストの御霊によらなければ)、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしに留まっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。(キリストの御霊によって生きないならば、いのちの根源に繋がっていないのです。そのような者に、永遠のいのちはありません)人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
とうもろこしの苗を育てるのに、枝豆を混植すると、肥料食いのとうもろこしの成長の助けになると知り、いっしょに植えてみました。
昨年、とうもろこしを育てるのに失敗したので、今年こそ、立派なとうもろこしが育ってほしいと思い、調べてみたら、枝豆のことを知りました。
とうもろこしの苗は元気に育っていますが、なんと枝豆はちっとも育たず、貧弱です。がっかりしながら、思い出したことがあります。私は、決して枝豆を収穫したくて枝豆の苗を購入したのではないことを。枝豆も収穫できればラッキーかなくらいの気持ちであって、とうもろこしを育てることが目的だったのです。とうもろこしの苗がちゃんと育ってくれるために、枝豆さんよろしくね、という気持ちでした。
そのことを思い返してみると、枝豆の苗はちゃんと役割を果たしていることに気づきました。
こういう働きもあるのだ、と気づかされました。まるで、人目につかずに執り成しているような働きです。自分自身は実を結んでいるのか、いないのかわからないような注目されない働きです。
枝豆自体は実をみのらすことに成功しなくても、枝豆の苗を植えた農夫である私の策は成し遂げてくれているのです。とうもろこしの苗が健やかに生長するのを助けることが、枝豆の苗に、私が期待したことだったからです。
枝豆の苗は、植えられたところに根を生やし生きているだけです。しかし、それが、とうもろこしの苗の成長に役立っています。植えた私の役に立っているのです。
そのことに気づいたとき、実をならすということには、こういう在り方もあるのだと思いました。
本人が、私には実がない、実をならした経験がない、と思っていても、執り成した相手が実を結んでいるならば、その実をともにすることになるのでしょう。
イエスは、国々の民を、羊(神の民)と山羊(獣の民)とにより分けることを言っておられます。
そして、羊を自分の右に、山羊を左に置かれます。
「そうして、王(キリスト)は、その右にいる者たち(羊)に言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたし(イエス)が空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王(とこしえに生きる者たちの国の、王イエス・キリスト)は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟(ユダヤ人)たち、しかも最も小さい者(身分のない虐げられている者)たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:34-40)
ユダヤ人たちに対する憐れみは、主から来る感情です。天の御国にはいるこれらの神の民は、主から来る感情に従って生きていたのです。
彼らは、おそらく、千年王国において、神の都の中に在る「いのちの木の実」を食べる人たちでしょう。彼らは、神の国の実を結んでいるわけではないですが、いのちの木の実を食べて、永遠のいのちを主からいただく人たちです。
人にはそれぞれ役目があるようです。王は、ユダヤ民族に親切にしてくれた人たちを、「わたしの父(いのちの根源)に祝福された人たち。」と呼びました。
キリスト教会にいる人たちだけが救われるのではありません。地上に生きる人すべての主、創造主であり裁き主である神は、すべての国民をより分けて、神の御心にかなう正しい人を救われます。
いのちの根源に受け入れられる生き方をしているならば、その魂は、いのちの役目を果たしているのです。それぞれ、いのちの役目を果たしていると意識していなくても、神は御覧になっておられ、ひとりひとりをよく御存じなのです。
正しい人の心には争いがなく、世の喧騒に心を痛めつつ、穏やかに和合しながら生きていることでしょう。