以前のパウロはどのような者だったのでしょうか。
ナザレ人イエスの名(ナザレのイエスが神の御子キリストであるとするイエスの教え、すなわち、ユダヤ人たちが異端と捉える教え)に強硬に敵対すべきだと考えていました。
パウロは、祭司長たちから権限を授けられて、多くの聖徒(イエスの弟子たち)を牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じる者でした。
また、すべての会堂で、しばしば彼ら(復活のキリストを信じるイエスの弟子たち)を罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、(イエス・キリストの御名を否むように、圧力をかけて苦しめてもなお、イエスの御名を決して否むことのない信仰に立つ)彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々(パレスチナの外の町々)にまで彼らを追跡して行きました。パウロの心は、イエスの弟子たちの血に飢えたハイエナのようでした。
パウロは、イエスを十字架につけたことはユダヤ民族の正義であり、聖なる神に忠実に仕えるユダヤ人の当然の、神への奉仕だと思っていたのです。
ところが、祭司長たちから権限と委任を受けて、イエスの弟子たちを捕縛するために、ダマスコへ向かっているパウロに、天からの光が現われました。その頃、パウロはサウロと呼ばれていました。
それは、太陽よりも明るく輝いて、パウロと同行者たちとの回りを照らしました。パウロたちはみな地に倒れ、パウロは、へブル語で語る声を聞きました。
「サウロ、、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」
サウロは、その声に向かって言いました。「主よ。あなたはどなたですか。」
主は、サウロに言われました。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(イエスの弟子たちは、十字架で死んだイエスが墓から甦って生きていると、デマを流していると信じていたサウロです。しかし、今、天からの光の中から語りかける主は、ご自身のことを「あなたが迫害しているイエスである。」と言われるのです。イエスの弟子たちが宣べ伝えているように、本当にナザレのイエスは墓から甦ったのでしょうか。イエスは、本当にキリストなのでしょうか。天からの強い光を受けたサウロの目は見えなくなっていました。闇の中でサウロの心はひどく動揺していました。『ああ、私はキリストを十字架につけて殺してしまったのか?』)
(サウロよ)起き上がって、自分の足で立ちなさい。(あなたの知識や教養によらず、また、ユダヤ人の教えによらず、自分自身の意志をもってキリストの信仰を受け取り、神の道に立ちなさい)わたし(復活したキリスト・イエス)があなた(サウロ)に現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたし(キリスト)があなたに現われて示そうとすることについて、あなたを(キリストの)奉仕者、また証人にするためである。(ユダヤ人の律法を守ることによってではなく、生ける神の御霊そのものがあなたに真理を教え導く。あなたはわたし〈死から復活したイエス〉に従い、生けるまことの神が遣わされた永遠に生きておられるメシア〈キリス・イエス〉を宣教する者として、わたしが選び、遣わすのである)
わたし(イエス・キリスト)は、この民(心が律法によって覆われ、霊に対して頑ななユダヤ人)と(神を知らず、律法も契約もない無割礼の)異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。(パウロが復活のイエスを宣べ伝えるならば、ユダヤ人たちはかつてのサウロのように、イエスの名を語るサウロの命を狙うだろう。パウロが真理のことばを語るならば、罪の中にいる異邦人たちはパウロに反逆するだろう。しかし、行きなさい。キリストが、パウロを任命し遣わすのだ。イエスは、パウロをユダヤ人から守り、異邦人から守ろう)
それは(頑なな)彼らの(霊の)目を開いて、暗闇(あとに死の国がつき従う世の知識と人の教え)から光(永遠のいのちの真理と永遠に生きておられる神の教え)に、(死と滅びをもたらすこの世の君の)サタンの支配から(永遠のいのちを得させられる生けるまことの)神に立ち返らせ、わたし(神の子羊イエス・キリスト)を信じる信仰によって、(信じる)彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(サウロのようにイエスを迫害していたユダヤ人も、神を知らず自分勝手に生きていた異邦人も、イエス・キリストの御名によって救い、聖徒たちとともに天の御国を相続する新しい人に造り変えるためである)」(使徒26:15-18)
復活のイエスに出会ったサウロは、以前のサウロではありません。真理の光に打たれて、肉が砕かれ、闇から光へ、パウロは、霊の人として生まれ変わったのです。
熱心なユダヤ教徒であったパリサイ人のサウロは、闇の中にあったのです。律法に厳格な人たちは、自分たちこそ神にふさわしい者だと思っていることでしょう。
しかし、イエスは言われました。
「わたしはさばきのために(イスラエルに)来ました。(あなたがたの神である〈イエスの〉父は、すべてのさばきを子〈神のひとり子、すなわち、神の子羊イエス〉にゆだねられました。それは、すべての者が、〈イエスの〉父〈イスラエルの神〉を敬うように子〈神の御子イエス〉を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。―ヨハネ5:22,23―神は、イスラエルに神のひとり子ナザレのイエスを遣わして、ユダヤ人の信仰を試されました。多くのユダヤ人は失格者でした)
それは(さばきと言うのは)、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。(私は律法を守ることができず神の御前で正しい者ではない、自分は不義の子だと思っている罪人が、真理の光〈イエスに神の栄光〉を見、イエスが神の御子キリストであると告白する信仰を得、私は律法を守っており罪人ではないと思っている律法の専門家たちが、真理の光〈神のひとり子の栄光〉を見ることのできない盲目となるためです)」(ヨハネ9:39)
「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。
『私たちも盲目なのですか。』
イエスは彼らに言われた。
『もしあなたがた(パリサイ人たち)が盲目(自分は正しい道を歩めない者だと自覚する罪人)であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。(あなたがたが神の御子イエスを信じる妨げとなるものはなかったことでしょう)
しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。(律法を学び、それを守っている私たちは正しい者である。私たちに罪はない)」と言っています。(自分自身で自分を義とする)あなたがたの罪は残るのです。(自分を義とする者は、罪の贖いの子羊の血を必要としません。自分は、神に赦されなければならない罪人であると思わないからです。キリストの血を受けない者は、自分の罪の中で滅ぶのです。世の罪を取り除くために神が遣わされた、罪の贖いの神の子羊イエスを信じないからです)」(ヨハネ9:40,41)
復活のキリストに出会い、目からうろこのようなものが取れたパウロは、霊の目が開かれる者となりました。神が遣わされたイエス・キリストの栄光を見る者となったのです。パウロは、イエスの弟子となり、キリストのしもべとなりました。
キリストに遣わされたパウロは、神の助けを受けつつ、小さい者にも大きい者にも、十字架につけたナザレのイエスが主キリストであることを証しました。
かつて、パウロは律法の奴隷でした。しかし、真理の光に照らされて、神の奴隷となったのです。
罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。そこに、真理はありません。不義の子らは、真理を知ることができません。
神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストを信じないのは、神の義を求めないからです。神御自身が義と認めることが、天の御国に受け入れられる義です。神が義と認められないものはみな不義です。
神が遣わされた神の御子イエス・キリストのことばに留まる者は、真理の光の中に入って生きる者です。そのような人たちは、真理を知り、真理は彼らを自由にします。もはや、罪の奴隷ではありません。
キリストの愛と、永遠のいのちの信仰と、天の御国の希望とを得るのです。