ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

やじろべえの信仰

 

 「イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。

 そして、イエスに言った。

 『なんの権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。』(イエスは、宮の中で売り買いしている人々を追い出したり、両替人の台や、〈ささげ物の〉鳩を売る者たちの腰掛けを倒したり、宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにも許されないで、彼らに、「わたしの家〈神の宮〉は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と〈聖書に〉書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれ〈神の宮〉を〈自分の金銭欲を満足させる金儲けのために利用し〉強盗の巣にしたのです。」と教えられたからです。イエスはユダ族出身であって、神に仕えるレビ族から出た方ではありません。神の宮に権威はないはずです)

 そこでイエスは彼ら(律法の下にいる祭司長、律法学者、長老たち)に言われた。

 『一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。

 (バプテスマの)ヨハネは、天から来たのですか、人から出たのですか。(ヨハネは、神に遣わされた者ですか、それとも、自分自身で水のバプテスマを授けている者ですか)答えなさい。』

 すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。

 『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。(ヨハネが天から遣わされた者だと言うのなら、なぜ、律法の下に居るあなたがたが、神に遣わされたヨハネを信じなかったのかと、イエスは言うだろう。―祭司長、律法学者、長老たちは、〈主の道を用意する〉ヨハネのもとに来て、水のバプテスマを受けることはありませんでした―)

 だからといって、人から、と言ってよいだろうか。』

 ―彼ら(祭司長、律法学者、長老たち)は群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、(バプテスマの)ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。(彼らは、群衆がヨハネを信じ、彼らの教える律法から離れて、新しい教えに向きを変えることを恐れていました。そうなれば、レビ人たちの立場がなくなってしまいます。また、群衆が預言者だと信じているヨハネを否定することは、群衆の暴動を引き起こしかねません)

 そこで彼らは、イエスに答えて、『わかりません。(バプテスマのヨハネが天から出た者なのか、人から出た者なのか、私たちにはわかりません)』

 そこでイエスは彼らに、『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。』と言われた。」(マルコ11:27-33)

 

 祭司長や律法学者や長老たちの信仰は、やじろべえのようです。状況に合わせて、こっちに傾き、あっちに傾き、神の信仰に立つことがありません。彼らの信仰の礎は、神ではなく、群衆の信仰ではなく、自分自身の立場を守ることに置かれているからです。

 

 神への意識はありません。彼らの意識は、自分たちの義を立てることです。

 霊なる神を知らない彼らは、宮で祈っても、心は闇の中です。

 

 彼らの霊は閉じていました。律法が彼らの信仰であり、律法の義によって、彼らは神に誇っていました。それで、目の前に天から来られた方がいても、彼らの目は光を見ることができません。

 

 彼らは、主の道を用意するために神に遣わされたバプテスマのヨハネを信じませんでした。彼らは、律法に精通した者です。主に受け入れられる歩みをしていると自負しています。聖書の学びをしていない無学な者たちとは違います。正しい歩みをしている自分たちが水のバプテスマを受ける必要があるでしょうか。何を悔い改めなければならないというのでしょうか。

 

 彼らの霊は閉じています。霊が閉じているということは、霊なる神との繋がりを持っていないということです。

 それで、神は、彼らをさして、仰せられました。

 

 「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く(神の御声を聞くことがなく)、その目はつぶっているからである。(神の栄光を見ることはない)

 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、(神に)立ち返り、わたしに癒されることのないためである。」(使徒28:26,27)

 

 イザヤの預言が、祭司長や律法学者や長老たちの上に成就したのです。

 彼らは、群衆と同じようにバプテスマのヨハネの声を聞いていても、ヨハネの招きに、神の権威を捉えることができません。彼らの心は頑なでした。

 彼らは、バプテスマのヨハネから悔い改めのバプテスマを受けることはありません。

 

 彼らは、群衆と同じように神の子羊イエスのことばを聞きながら、イエスを遣わされた神の権威を知ることがありません。

 彼らは、群衆と同じように神の御子イエスのみわざを見ていながら、彼らの目は神の栄光を見ることができません。

 

 彼らは、天につくことも、人につくこともありません。彼ら自身が神になっているのです。彼らの信仰の土台は、神のことばにあるのではなく、神のことばである聖書を私的解釈して、自分たちの都合のよいように教えるのです。

 

 やじろべえの信仰は、日和見(ひよりみ)信仰です。有利なほうについて、自分の安全をはかるのです。それは、自我であって、信仰とは言えません。

 

 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している人々です。

 自我の力で立っており、神の御前に立つ備えがありません。

 

 肉(自我)で目が塞がれて、真理の光を見ることができません。

 自分は盲目だ。目が見えない。光を見ることができない、と感じるならば、救いは近づいてくれることでしょう。

 しかし、彼らは盲目でありながらそれを認めず、光を求めているわけでもありません。彼らは、自分に良いと思う道を進むだけです。

 

 神は、救いを求める人たちに、天からの新しい信仰をお与えになりました。いのちの信仰です。規則や掟や律法によって、神に近づくのではなく、感情や五感、生きている実感を持ついのちの体験をする肉の心によって、霊なる神を捉え、霊的信仰によって生けるまことの神と結び合わせられる信仰です。

 

 人の子となられた神のひとり子イエス・キリストと出会って、神に立ち返り、キリストの御霊によって、霊の父、天の御国、永遠のいのちを教えられる信仰です。

 そのような信仰は、天から来た信仰であり、天に属する信仰です。その信仰の礎は、イエス・キリストの御名にあります。

 

 イエス・キリストを否定する祭司長たちの信仰は、礎のない不安定な信仰で一貫性がありません。

 堅い土台に立っていない信仰は、試みの日に、大きく倒れてしまうことでしょう。そして、聖書の神から外れ、ほかの神(反キリスト)と結びつくのです。