「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)
御霊を受けることのたとえとして、イエスは言われました。
風には色がありません。木々の揺らぎを目で見たり、風が通り過ぎる音を聞いたり、頬をなでる感覚を肌で感じて、風が通り過ぎていることを捉えます。
風をつかまえようとしても、捕えることはできません。ただ、風が通ったことを知らせる現象を見て、存在を確認するだけです。
御霊もまた、そのとおりだ、といわれました。目には見えません。しかし、病人が癒されたのを見聞きして神の働きがあったことを理解します。神の働きということはわかりますが、それが御霊として捉えるかどうかは、人それぞれです。
肉の人は、正体のわからないものには懐疑的です。御霊は、肉体を持つ人の子イエスのように、目に見えるかたちで来られないからです。
悪霊が追い出されるところを目撃するならば、目には見えないけれども、確かに霊的な存在が世に居ることを知ります。悪霊は、男のような低い恐ろしい声で話したり、また、狂暴であったり、あるいは、猫なで声で出したり、様々な現われ方をしますが、明らかなことは、悪霊に憑かれた人の中には、人間ではない獣の霊が入っているということです。その人自身ではない、別の存在がその人の肉体の中に居る、ということを経験します。
その人の霊の性質とは違う、別の霊の性質が顔を出します。その時、その人は別人となります。その人は、その悪霊を飲んでいる状態なのです。また、もっと進むと飲まれている状態です。
その悪霊が出て行くのを目撃するならば、霊的な存在なんていない、と豪語する人の考えは引っ繰り返るでしょう。
ひとつの肉体のからだに、別の霊が入っている状態です。その人自身の霊から、その肉体を乗っ取ろうとするような悪質な霊もいるでしょう。多くの場合は、その人の肉体を乗っ取るというよりは、その人の性質であるかのように働き、滅びへと向かわせるでしょう。その人の霊と獣の霊との判別がつかなくなるほど、長い間支配されていることもあるでしょう。
そうです。霊的存在は、物や人やかたちあるものを媒体として地上に存在するのです。
悪霊につかれたひどく狂暴なふたりから悪霊を追い出されたイエスの記事があります。
悪霊に憑かれたふたりの人がイエスに出会うと、彼らの中にいた悪霊どもはわめいて言いました。
「神の子よ。(悪霊どもは、イエスの正体を知っています。悪霊どもが天から追放される以前、天に、父なる神とともにいた神のひとり子です。肉体を持つナザレのイエスの本性は神格者です)いったい私たち(悪魔と悪霊ども)に何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」(マタイ8:29)
悪魔も悪霊どもも、自分たちの終わりを知っています。悪魔を踏み砕く神のひとり子が、人の子となって、世にやって来られたのです。
「ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。『もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(もし悪霊どもをその住まいであるふたりの人のうちから追い出すつもりならば、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように。どうか豚の群れに入ることを許してください)』
イエスは彼ら(悪霊ども)に『行け。』と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっと崖から駆け下りて行って、水に溺れて死んだ。」(マタイ8:30-32)
霊は、目に見える者の中に入って、人間を惑わし、また、支配することが多いのです。ふたりの人から出て行った悪霊どもは、豚の群れにはいりました。悪霊は一匹二匹ではありません。居心地が良いと大勢の悪霊どもが来て住むのです。
ちなみに、一番大勢の悪霊が入っていると言われているのが、マリア像です。
目に見えない霊の存在の悪霊が、媒体をもたないで存在している場合は、人目につかない場所にいるでしょう。人のほうからそこへ行かないかぎり出会うことはありません。家に住みついていたり、場所に住みついていたり⋯。しかし、人は自分から近づかない限り、害を受けることはないでしょう。
しかし、人の中にはいる悪霊どもは、その人の思考や生活をコントロールして餌食にします。
霊は、霊そのもので存在するよりも、媒体にはいったほうが、確実に人を罪の虜にすることができるのでしょう。
霊の存在である御霊を飲むならば、人は御霊の性質を映し出します。人の霊が御霊に乗っ取られるということはありません。御霊を教師として、イエスのことばを思い起こされ、真理を教えられて、神の子どもにふさわしく造り変えていかれます。自分の思いよりも御霊の御思いを優先することを学ぶと、キリストの性質をかたち造っていかれるのです。
イエスは、御霊は風のようだ、と言われました。
目に見えない霊の存在の御霊は、その人の中で生きておられ、確かにその人を造り変えていかれます。
短気だった人が少しずつ忍耐深くなり、怒りっぽかった人が穏やかになり、思い悩む人が明日に希望を持つようになり、心配性な人が備えられた人となり、弱かった人が主に信頼する力ある人となり、臆病な人が大胆になり⋯。本人の知らない間に、変えられているのです。
主は、私たちひとりひとりに望まれるお方です。離れておられません。
私たちは、罪の贖い主である神の子羊イエスを信じ、神に義とされた者です。
私たちは、キリストの血によって、神と和解した者です。自分の罪を悟り、神の御前で罪を悔い改めて、神に近づくことを許された者です。
キリストの御霊を待ち望む信仰を得た私たちの祈りに答え、イエス・キリストは、キリストのバプテスマ(聖霊のバプテスマ)を授け、私たちのうちに、父の約束の「もうひとりの助け主【真理の御霊】」を授けてくださいます。だれも、この約束からもれる人はいません。
ヤコブのように、祝福をいただくまでは、決してあきらめてはいけません。必ず、神は約束のものを与えてくださると信じ続けることです。
聖霊を求める事は、キリストの誉れです。イエス・キリストだけが、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つお方だからです。
キリストの御霊を持つ人は、キリストの霊を宿すことになります。御霊によって、その人の霊はキリストと繋がります。肉なる者である私たちの霊が、永遠に生きておられるキリストの霊と繋がるのです。
すると、祈りも御霊が教えてくださいます。霊とまことの礼拝へと導いてくださいます。人の中には、まことの礼拝をする知識も知恵もありません。なぜならば、人には天上のことがわからないからです。神のことも、御霊に教えられなければ、ぼんやりしています。
しかし、天から遣わされているキリストの御霊は、天の御国のことも、父なる神のことも、キリストの御思いも、真理をも惜しみなく教えてくださいます。
真理を知る御霊とともにいるならば、御霊が正しい道へと導いてくださいます。御霊は、私たちの外におられる方ではありません。私たちひとりひとりを、御住まいとされているのです。
「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様(胎児の骨々がどのように組み立てられるのか)、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。」(伝道者11:5)
私たちは知らなくてもよいのです。私たちのうちに住まわれる御霊が御存じですから、御霊に信頼して日々御霊とともに生きていればよいのです。
主は臨まれるお方です。人の子の姿となって来られた神のひとり子は、死から甦り、キリストの御霊となって、私たちに臨んでくださいます。
私たちは、イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見ていないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、風のように目には見えないけれども、確かに私たちのうちに臨まれている御霊の働きなのです。
私たちは、御霊を飲む者です。主は私たちに臨まれ、御霊は私たちを満たしてくださいます。キリストを信じるすべての人に約束された確かな約束です。