ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

違反のない御霊の教会

 

 

 神は、荒野で、アブラハムの子孫イスラエルと契約を結ばれました。アブラハムに割礼のしるしを求められた主は、割礼を継承するイスラエルに、神の民としての律法をお与えになりました。

 

 神は、アブラハムとの契約と祝福ゆえに、また、ヤコブへの誓いゆえに、イスラエルを選び、イスラエルを神の祭司の国民として任命されました。

 イスラエルは、神の契約の箱を造り、天幕に安置し、契約の箱とともに、荒野を進みました。契約の箱の中には、荒野で養ってくださった神を証する天からのパン【マナ】を保管した「金の壺」(イスラエルは、神によって生かされる神の民である証)、モーセが神から受けた「十戒の石の板」(イスラエルは、神のことばに導かれる神の民である証)、神がレビ族のアロンの子孫をイスラエルの大祭司に任命しておられることを証する「アロンのアーモンドの実を結んだ枝」(アロンが神に定められた神の民の大祭司である証)が入っていました。契約の箱は、イスラエルが「神の祭司の国民」であることを証する「あかしの箱」です。

 

 神の民イスラエルは、御救いが約束された民族です。

 神は、ユダヤ民族のうちに預言者を立てて、神のことばを与えられました。神は、ユダヤ民族に神のことばを与え「聖書」をゆだねられました。

 

 イスラエルは、聖書に書かれたメシアを待ち望む民族です。天地万物を造られた全能の神、アブラハムの神に仕えるイスラエルは、「キリスト」が来られるのを待ち望みました。

 神は、ユダ族のダビデをイスラエルの王に立て、ダビデの子をとこしえの王座に着かせることを約束されました。

 イスラエルは、とこしえの王、ダビデの子を待ち望みました。

 

 神は、キリストを世に現わす前に、キリストの来られることを知らせ、主にお会いするために悔い改めのバプテスマを授け、ユダヤ人たちに神の聖者(律法と詩篇と預言者を完成するキリスト)にお会いする備えをさせるために、バプテスマのヨハネを遣わされました。

 

 しかし、祭司長や律法学者や長老たちは、神が遣わされたバプテスマのヨハネを信じることなく、ヨハネから悔い改めの水のバプテスマを受けることはありませんでした。

 ヨハネを信じなかった彼らは、神が遣わされた世の罪を取り除く神の子羊キリスト、すなわち、ナザレのイエスを信じることなく、十字架につけて殺しました。

 

 神の律法を厳格に守っていると自負する彼らは、神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストを信じないことで、律法の違反者となりました。

 

 モーセは、イスラエルに命じていたのです。

 「あなたの神(イスラエルの神)、主は、あなたのうちから、あなたの同胞(ユダヤ人)の中から、私(モーセ)のようなひとりの預言者(神のことばによって民を導く救い主)をあなたのために(イスラエルの救いのために)起こされる。

 彼(神が遣わされるキリスト)に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)

 

 祭司長も、律法学者も、長老も、モーセの命令に従いませんでした。神が遣わされたひとりの預言者、すなわち、イスラエルを救うために遣わされたイエス・キリストを信じず、聞き従わなかったのです。

 

 こうして、聖書の民であるユダヤ人たちは、モーセの命令を守らず、神のことばに背いて、信仰の失格者となりました。

 

 神の祭司の民の手によって十字架で血を流された神の子羊イエスの血は、律法、詩篇、預言者を完成しました。神の子羊の血は、世の罪を取り除き、律法の違反の呪いを解き放ちました。(死と死後の裁きから解放しました)

 罪の呪いである「死」を恐れさせる、闇の支配(原罪の呪い)から解放されました。

 

 罪の贖いを成し遂げて、死から甦り、霊のからだで復活した神の子羊イエスは、「第二のアダム」の初穂となられました。

 女から生まれた肉の「人の子イエス」が、御霊によって新しく生まれ、霊の子ども、すなわち「神の子ども」に造り変えられました。

 土から創造されたアダムは、御霊の新しい創造によって第二のアダム(新しい人、すなわち神の子ども)に生まれ変わりました。

 

 キリストご自身、肉体の人イエスが、神に義とせられ、御霊にあって死から復活し、永遠のいのちを得る「新しい人」の初穂となられました。新しい人は、御霊の人であり、永遠に生きるキリストのからだ(七つの御霊の教会)です。

 

 神は、死と滅びから救う「救いのみわざ」を成し遂げた神の子羊イエスを信じて、天の御国へと導く「もうひとりの助け主(真理の御霊)」を受ける人を、神の子羊イエスのように死から甦る新しい人に創造して、キリストのからだとされます。

 

 肉の人は、神の子羊イエスを信じると、罪が赦されて神に義とされます。

 また、もうひとりの助け主【聖霊】を受けると、御霊に真理を教えられる「新しい人」に造り変えられて、永遠のいのちを得させられます。

 

 イエス・キリストを主とするキリスト教会は、ユダヤ人を迫害して、御霊を失いました。

 「(神と契約を結ぶアブラハムの子孫である)イスラエルを祝福する者を祝福し、(神の御子イエス・キリストの国である)イスラエルを呪う者を呪う。」と仰せられる主の誓いを軽んじたのです。

 

 神は、キリストを信じる者に、真理の御霊を遣わす約束をしておられます。真理の御霊に教えられるならば、イスラエルを呪うことも、ユダヤ人を憎むこともしないはずです。

 

 ユダヤ人たちは、聖書を信じて、神に約束されたキリストを待ち望みました。しかし、神の子羊イエスが来られたとき、イエスがキリストであることがわかりませんでした。

 

 キリスト者たちは、聖書を知りながら、父なる神の約束の真理の御霊を待ち望むことをしません。聖霊の働きは、使徒たちの時代のことだと思っているからです。しかし、神は普遍の神です。聖霊のバプテスマを授ける用意はあるのです。

 

 イエス・キリストを信じないユダヤ人が律法の違反者ならば、聖霊のバプテスマを待ち望まないキリスト者もまた、主イエスが授けられた新しい律法の違反者です。

 

 キリスト者は、イエス・キリストに繋がらなければ、契約の民ユダヤ人であっても、永遠のいのちが得られないと思っています。文字の律法は古びており、キリストの与えられる新しい律法によらなければ、永遠のいのちは得られないことを知っているからです。

 

 しかし、御霊を締め出した教会は、思いが暗くなっています。霊の目は閉じ、霊の耳は閉じ、神の栄光を見ることもなく、神の御声を聞く事もありません。生けるまことの神を知らないのです。

 

 キリストは、肉のからだを求めているのではありません。イエスの肉のからだは死んで、霊のからだで復活されたからです。

 キリストのからだの頭は、キリストです。死から甦られたキリストが頭なのに、からだは肉のままということは有り得ません。からだもまた、霊なるものでなければなりません。御霊によらなければ、死から甦ることはないのです。

 

 御霊は、ひとりひとりのうちにあって、魂を生かす御霊です。御霊に生かされる魂は、生ける神に仕える者とされます。

 

 罪を贖うために私たちに与えられたキリストの血は、キリストが御霊によって神におささげになった血です。

 御霊によってささげられた血なので、神と人との和解が成立しました。御霊によらなければ、天と繋がることはできません。

 

 私たちが「主」と呼ぶキリストは、天に上げられました。今、地上にいて私たちを父のみもとへと導いてくださるのは、生かす霊である、真理の御霊です。

 真理の御霊は、私たちにイエスのことばを思い起こさせ、真理を教えてくださいます。御霊によってささげられたキリストの血は、私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、霊とまことをもって礼拝する者に造り変え、生ける神に仕えさせるのです。

 

 御霊によって新しい創造を受ける者は、復活のキリストのからだとなります。キリストを頭とする「復活のキリストのからだ」となるのです。

 

 復活されたキリストの右の手の中にあるのは、永遠のいのちをいただく「七つの御霊の教会」です。

 

 御霊の教会は、神が聞き従うように命じられた「神の御子イエス」を信じ、また、復活したキリストの命令に従って、御霊を受けた人たちの教会です。

 「真理の御霊」に導かれる人は、御霊の教会に属する人であり、違反のない者です。天の法の中に守られているのです。

 

 御霊の教会は、永遠のいのちが得させられるキリストのからだであり、天の御国にはいって、新しい天と新しい地に住まうのです。