「主はこう仰せられる。
『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。(知恵がその人のいのちを救うのではない)
つわものは自分の強さを誇るな。(力がその人のいのちを守るのではない)
富む者は自分の富を誇るな。(富がその人に永遠のいのちを得させるのではない)
誇る者は、ただ、これを誇れ。(真理を知る)悟りを得て、わたし(創造主であり、生かすも殺すもその判決の権限を持つ裁き主、すなわち、魂の御救いの鍵を握る生けるまことの神、主)を知っていることを。
わたし(人に永遠のいのちを得させる神)は主(絶対主権者)であって、地に恵みと正義を行なう者であり(この世に公正な裁きと永遠の御救いを成し遂げる者であり)、わたしがこれらのこと(知恵があって、神のことばに心を留め、主の愛と恵みを悟ること。主の御口が語られたことを告げ知らせること)を喜ぶからだ。―主の御告げ。―』」(エレミヤ9:23,24)
人は、虐げに虐げを重ね、欺きに欺きを重ねて、神を知ろうともしない。
彼らはおのおの、騙し合って、真実を語らない。偽りを語ることを舌に教え、悪事を働き、以前として悔い改めない。
それゆえ、神は人を罰せられます。
「その日、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。(アブラハムの血肉の子孫を罰する)
無割礼の民のすべての者を罰する。
すべての国々は無割礼(神に聞き従う民としての契約を持たず、神の民に数えられていない民)であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」(エレミヤ9:25,26)
パウロは言います。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。(律法を守らない人の割礼は、契約の効力を持ちません、契約を持たない民よりも悪いのです)
もし割礼を受けていない人(異邦人)が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字(聖書)と割礼(神に聖別された神の民であるしるし)がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。」(ローマ2:28,25-27)
キリスト者は、ここでパウロが「あなた」と言っている箇所に、古い契約の民のユダヤ人ではなく、新しい契約の民の「クリスチャン」を当てはめてみてください。
ユダヤ人たちに向けられていると思っていた警告が、わが身に迫って来るではありませんか。
洗礼を受けていない人が、聖書のことばを知らずに、聖書に書かれたイエスのことばのうちを歩むならば、それは、洗礼を受けていなくても、神の道を歩んでいるのです。
異教徒であっても、神の道を歩んでいるならば、神は彼らを義とする恵みと慈しみとを持っておられます。
異教徒たちは、真理の知識(聖書)はないのに、自分の霊において、生けるまことの神を知っています。洗礼を受けていないのに、良心によってイエスの教えのうちを歩んでいる者が、聖書を知り洗礼を受けていながらイエスのことばのうちを歩んでいないクリスチャンを、さばくことにはならないでしょうか。
神がご覧になられるのは、心の割礼です。
包皮の肉を切り取る肉の割礼は、神の契約を継承するアブラハムの家に生まれる子どもたちが代々にわたって、神に聖別されたきよいものであることのためでもあります。
アブラハムの子イサクは、妻サラとの間のひとり子です。アブラハムが百歳、妻サラが九十歳の時に生まれました。
イサクは、閉経したサラの胎に神がお与えになった奇蹟の子です。人間の理解を超える神のみわざです。
アブラハムのひとりの子孫(世を救うキリスト)は、ユダヤ人の処女の胎内に宿りました。神のひとり子イエスは、神の聖霊によって、肉体を持つ「人の子」としてお生まれになったのです。
神の民イスラエルは、肉の割礼を受ける民族です。そして、神の律法を生活の礎とする神の民です。
神は、割礼の民ユダヤ民族から、神の御子イエスを現わされました。ユダヤ民族は、救世主を生む神の民だからです。
神の契約は、イエス・キリストがダビデの子として生まれたことで、成就しました。ユダヤ人に与えられた律法は、キリストを与えるためのものでした。
イエス・キリストは、律法の成就として生まれたのです。ユダヤ人たちが守って来た律法は、イエスが完成されました。律法も、詩篇も、預言者も、神の御子キリストのことを言っていたのです。
神の子羊イエスは、罪の贖いの子羊として、過越しの祭りの日に、神にささげられました。ユダヤ人のみなが目撃する中で、十字架につけられたのです。ユダヤ人たちの目は、木にかけられて神に呪われた者となった神の子羊イエスの上に注がれました。
神の子羊イエスの贖いの血は、世の罪を取り除きました。悪魔が人を騙して「死」に閉じ込めた、「人の犯した罪」は赦されたのです。罪のない神の子羊イエスは、罪の呪いの死に閉じ込められることはありません。甦られました。
そして、子羊の血を携えて、天の聖所にはいられました。神は、子羊のきよい血を満足されました。
神の子羊イエスの血に覆われる者を、神は「義」とされます。罪が赦された者とされるのです。神の子羊の血には、罪を贖う力があるのです。
ユダヤ人の律法を完成されたイエスは、聖霊のバプテスマを授ける権威を神から与えられて、天においても地においても、唯一の主権者キリストとなられました。
割礼の民ユダヤ人は、神が遣わされた神の御子キリストに聞き従いませんでした。割礼を受けていない異邦人が、キリストを信じました。
死から復活したキリストは、永遠に生きるメシアです。イエス・キリストのことばのうちに、永遠のいのちがあります。
ユダヤ人たちは、「神が遣わされる私のようなひとりの預言者に聞き従わなければならない。(モーセが、イスラエルをカナンの地に導き入れるために、奴隷の家エジプトからイスラエルを救い出したように、神は、天の御国に導き入れるために、罪の奴隷の世から救い出してくださるキリストを遣わされる。神が遣わされたモーセによらなければ、奴隷の家からの解放がなかったように、神が遣わされるキリストによらなければ、罪の奴隷と死からの解放はない。それゆえ、キリストに聞き従うことは神に聞き従うことであり、神の契約のうちにあることです。モーセのような預言者〈神の民を天の御国に導く教師であるキリスト〉に聞き従わない者はだれでも、〈神の〉民の中から滅ぼし絶やされる)」と命じたモーセの命令を知っています。
しかし、心の割礼を受けていないユダヤ人には、キリストがわかりませんでした。肉の割礼のしるしで満足していたのです。
モーセが神とお会いすると、モーセの顔の肌は光を放ちました。それで会衆は恐れて、モーセに近づけませんでした。モーセは彼らと語り終えると、顔に覆いを掛けました。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔に覆いを掛けていました。
モーセが、消えうせるもの(光)の最後をイスラエルの人々に見せないように、顔に覆いを掛けたように、イスラエルの人々もまた、古い契約(旧約聖書)が朗読されるときに、覆いを掛けているのです。それゆえ、生けるまことの神の栄光を見ることができません。
しかし、ユダヤ人たちの思いが主イエス・キリストに向くなら、心の覆いは取りのけられて、主の栄光を見、御霊の働きを知ることでしょう。
終わりの時代に、聖書を知らない人も、良心によって、きよいことを求め、生けるまことの神の霊に触れることでしょう。
心の割礼を受けていないユダヤ人やクリスチャンよりも早く、異教徒の人々が、イエスのことばのうちを歩み、心の割礼を受けることでしょう。(現象や人の知識や知恵や思いによらず、目に見えない霊なるものに真理があると思って、目に見えないものを尋ね求めるのです。神は、そのような人に現われてくださいます)
神が臨まれ、聖霊の雨を注がれるとき、彼らのほうが先に、真理の御霊を受け入れ、真理を悟るのです。
パウロは言います。
「人目に隠れたユダヤ人(肉の割礼がなく、聖書を知らなくても、目に見えない聖なるお方を恐れる人)がユダヤ人(神の選びの民)であり、文字(聖書)ではなく、御霊による、心の割礼(肉を殺し神の霊に聞き従う)こそ割礼(いのちを得させるまことの神の契約)です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(人はうわべを見るが、神は心を御覧になられるのです)」(ローマ2:29)
心の割礼は、御霊によって与えられるものです。