ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰の勝利者となるために

 

 神の子羊イエスは、十字架にかかり、罪の贖いの血を流して墓に入り、死から甦り、復活の新しいからだで天に上られると、御座におられる方から、聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威をお受けになりました。

 

 イエスが公に現わされる前に、キリストを証しするバプテスマのヨハネが遣わされました。ユダヤ人たちは罪を悔い改め、ヨハネから水のバプテスマを受けて、神が遣わされるキリストにお会いする備えをしました。

 

 ヨハネはユダヤ人たちに言いました。

 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方(神が遣わされるキリスト)は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。(キリストを証言するヨハネは、悔い改めのバプテスマ〈水のバプテスマ〉を授けましたが、神が遣わされるキリストご自身は、聖霊のバプテスマをお授けになります。神格者であられる聖霊をお与えになる権威を持つ方は、天から来られた神の御子キリストだけです)」(マルコ1:8)

 

 そして、ヨハネは見ました。天が開け、ナザレのイエスの上に、神の御霊が鳩のようにお下りになって、留まられたのを。

 ヨハネは、ナザレのイエスが、ヨハネをお遣わしになった神の仰せになる「キリスト」であることを悟りました。

 

 主は、ヨハネに言っておられました。

 「聖霊がある方の上に下って、その上に留まられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」(ヨハネ1:33)

 

 ヨハネは、霊の目ではっきりと見ました。それで、ヨハネは、ナザレのイエスが神の御子キリスト(世を救う神の聖者)であると証言しました。

 

 ヨハネはイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊。(世の罪を取り除く神の子羊)」と言いました。すると、ヨハネがそう言うのを聞いたヨハネの弟子のふたりは、イエスについて行きました。そのうちのひとりは、ペテロの兄弟アンデレでした。

 

 イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊から癒し、また多くの盲人を見えるようにされました。

 盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に(御国の)福音が宣べ伝えられていました。

 

 しかし、イエスがキリストであることを証言したヨハネは、キリストにそのようなことを求めていたわけではありませんでした。

 キリストは、罪を取り除き、聖霊のバプテスマを授けるお方です。いつ、キリストは、神の民ユダヤ人に、永遠に生きるいのち、神の御霊のいのちを授けてくださるのでしょうか。

 

 バプテスマのヨハネは、自分の弟子たちの中からふたりを呼び寄せて、主イエスのもとに送り、「おいでになるはずの方(キリスト)は、あなた(ナザレのイエス)ですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と言わせたのです。(ルカ7:20)

 

 イエスはヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていました。(イエスご自身はバプテスマを授けておられていたのではありません。イエスの弟子たちが水のバプテスマを授けていたのです。イエスは、聖霊のバプテスマを授けるキリストです)(ヨハネ4:1,2)

 

 ヨハネは、知りませんでした。聖霊のバプテスマは、イエスが罪の贖いの血を流したあとで死から甦って、御座におられる方〈神の子羊イエスを遣わされた父なる神〉から、永遠に生きる救い主キリストの栄光をお受けにならないと、実現しないのです。

 

 イエスはまだその栄光(聖霊のバプテスマを授けるキリストの栄光)を受けておられないので、御霊はまだ注がれていませんでした。

 神に遣わされたバプテスマのヨハネは、ナザレのイエスの十字架の死よりも早くに亡くなっています。ヨハネは、ナザレのイエスの名前に、キリストの栄光を見ることなく、死んで行ったのです。

 

 神はすべてを知らせられるのではありません。

 バプテスマのヨハネに、「聖霊がある方の上に下って、その上に留まられるのが見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方(キリスト)である。」と仰せられました。それで、ヨハネは、天から神の御霊が下って来てその上に留まったナザレのイエスが神の御子キリストである、と証言しました。

 

 ヨハネは、ナザレのイエスの十字架の死と死からの復活の後に、御座におられる方から、神の子羊イエスが聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威をお受けになることまでは知らされていなかったようです。

 

 ヨハネは、天から聖霊が下ったナザレのイエスが神の御力を受けて、聖霊のバプテスマを授けるキリストになられる、と思ったのでしょうか。ヨハネは、神の御救いの手順を知りませんでした。

 

 自分の思いどおりに事が運ばないのを知ると、ヨハネのうちに疑念が生じました。ナザレのイエスは、本当にキリストなのだろうか。ほかの方を待つべきだろうか。

 

 自分自身の霊の目で天から鳩のように下る御霊を見、イエスの上に留まられるのを見たヨハネの気持ちは大きく揺れ動きました。ヨハネは霊の目で見ました。ほかのだれも見ていないのです。ヨハネとイエスのふたりだけが、御霊を見ました。

 ヨハネとともに証言する者はいません。

 

 イエスは、ヨハネの伝言を持って来たヨハネの弟子たちに言われました。

 「だれでも、わたし(イエスがキリストであること)につまずかない者は幸いです。」(ルカ7:23)

 ヨハネは、疑いの牢に閉じ込められてしまいました。

 

 イエスの弟子たちは、イエスが聖霊のバプテスマを授ける体験を見聞きしていなくても、イエスがキリストであると信じて従いました。

 イエスの弟子たちは、イエスがなさる病人の癒し、悪霊の追い出し、罪人の赦し、死人の甦りを見て、イエスが神から遣わされたキリストであることを信じたのです。

 

 イエスの弟子たちは、イエスから父について、御国について、真理の御霊について、永遠のいのちについて教えられ、真理のことばを聞き、神のことばのうちを歩んでいました。

 

 「イエスは、十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。

 『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子(神の子羊イエス)は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子(神が遣わされたキリスト)を死刑に定め、そして、異邦人(ローマ人)に引き渡します。

 すると、彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに(ナザレのイエス)を殺します。しかし、人の子(悪魔を踏み砕き、罪の呪いと死を滅ぼし、罪人を永遠の死から救い出す神の御子キリスト)は三日の後に、甦ります。』」(マルコ10:33,34)

 

 父なる神とともにおられたイエスは、神の御計画をよくご存じでした。イエスが弟子たちに話されたことは、イエスの身に成就しました。

 

 三日目に死から甦ったイエスは、弟子たちに現われて言われました。

 「エルサレムを離れないで、わたし(イエス)から聞いた父の約束を待ちなさい。(父はイエスが去ったあとで、もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主【真理の御霊】がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。わたし(教師であるイエス)は、あなたがた(弟子たち)を捨てて孤児にはしません)

 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4,5)

 

 イエスご自身が、ご自分を、聖霊のバプテスマを授けるキリストであると証言されました。

 

 イエスは言われました。

 「わたしは真実を言います。

 わたし(肉体のイエス)が(地上から)去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたし(イエス)が去って行かなければ、助け主(真理の御霊)があなたがたのところに来ないからです。

 しかし、もし(イエスが地上を去って天に)行けば、わたし(御座におられる方から聖霊のバプテスマを授ける権威を受けたキリスト・イエス)は、助け主(あなたがたのうちに住まい、あなたがたにイエスのことばを思い起こさせ、真理を教える、生かす御霊)をあなたがたのところに遣わします。

 その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。(イエスとともにいた頃の弟子たちは神の力のない弱い者でした。しかし、真理を教える御霊が弟子たちのうちに来られると、弟子たちは真理を知る者、真理を宣べ伝える勇者となります。そして、イエスよりも大きなわざをし、神の栄光を現わす者となります)」(ヨハネ16:7,8)

 

 神から遣わされたバプテスマのヨハネは、聖霊のバプテスマを受けることはありませんでした。神の子羊イエスは、まだ、聖霊のバプテスマを授けるキリストの栄光を受けておられなかったからです。

 

 そして、聖霊の力のないヨハネは、自分の信仰の中で迷って、キリストがわからなくなりました。ナザレのイエスがキリストであることがわからなくなったのです。

 

 しかし、イエス・キリストの御名によって、聖霊のバプテスマを受けたイエスの弟子たちは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊を受けました。

 

 信仰を持ち続けて御霊の教会の勝利者となるためには、キリストが授ける聖霊のバプテスマによって受ける「真理の御霊」が必要です。天の御国にはいらせるために、父なる神が遣わされる「もうひとりの助け主」です。

 

 神は、世の終わりに御霊の雨を注がれます。真理を悟らせる御霊です。

 

 主は言われます。

 「見よ。わたし(主)は新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。

 あなたがたは、それを知らないのか。

 確かに、わたしは荒野(義に渇く魂)に(救いの)道を、荒地(枯渇した霊)に川(生ける水の川、すなわち、生かす御霊の注ぎ)を設ける。

 わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。(神が御霊を注ぐと彼らは真理を悟り、神に立ち返って御救いを受けます)

 わたし(神の栄光)のために造ったこの民(御霊によって生まれる新しい民)はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。(神の御救いを伝え、主を賛美する民となる)」(イザヤ43:19-21)

 

 「神の御霊を歓迎します。私のところに来てください。そして、いのちの道を歩ませ、救いの喜びで満たし、神をほめたたえる新しい者、御国の子としてください。」