ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

アブラハムの信仰を受け継ぐ者

 

 「信仰によって、アベルはカインよりも優れたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼(アベルの心からの)ささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。(カインはささげるという、自分自身の行為を重んじました。しかし、アベルは、ささげ物を受け取ってくださる神を心の真中に置いて、真心をもって神にささげました。神は、アベルの心を受け取られました。そして、アベルを義人であるとあかしされたのです)彼(神に義とされたアベルの正しいことを妬む兄カインに殺された弟アベル)は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(信仰は、肉体が滅びようとも、とこしえに残るものです)

 信仰によって、エノクは死を見ることのないように(天に)移されまいた。神に移されて、(地上の人々に)見えなくなりました。移される前に、彼(エノク)は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(能力や財力や権力ではなく、また、献身でもなく、神への信仰が神に受け入れられるからです。―「権力によらず、能力によらず、わたしの霊(聖霊)によって。」(ゼカリヤ4:6)―神の栄光は、神御自身、神の御霊にあるのです。人の最善は、神に信頼して神とともに歩むことです)

 神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(目に見えない神を見ているように仰ぎ、神は求める者には与えてくださるという神への信頼を持つ信仰は、神を体験します)

 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事柄について神から警告を受けたとき(神から大水によって地を滅ぼすことを語られたとき、ノアは神のことばを信じ、大水から救われるための箱舟を造ることを納得した上で)、恐れかしこんで、その家族の救いために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者になりました。(ノアの家族以外の人々は、あり得ないことだと思い、神の裁きを軽んじました。彼らは、自分たちの罪を理解しませんでした。彼らは、目に見えない神を信じず、神の裁きを信じなかったのです。世の人々が信じなくても、神のことばは実現しました。ノアの箱舟は、大水で流された世が神の怒りによって滅ぼされたことをあかししました。ノアは神を信じました。ノアの信仰は神に喜ばれました。神は、神のことばを信じて信仰によって箱舟を造ったノアを義とされました。ノアは信仰による義を相続する者となりました)

 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを(神から)受けたとき、これ(神のことば)に従い、どこに行くのかを知らないで、(父の家を)出て行きました。

 信仰によって、彼は約束された地(カナン)に他国人のよういにして住み、同じ約束をともにするイサクやヤコブ(すなわち、アブラハムの子孫)とともに天幕生活をしました。(天地万物を造られた全能の神、主からアブラハムの所有地として与えられたカナンの地ですが、アブラハムと相続人のアブラハムの子孫とは、カナンの地の在留異国人として、カナンの住民たちの間に仮庵生活をしました)

 彼(アブラハム)は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(アブラハムの家は、神の家です。神御自身がお住まいになる都とともに住まうのです。その都の構想は、神御自身のうちにあるのです)

 信仰によって、(アブラハムの妻)サラも、すでにその年を過ぎた身(閉経し子を宿す力のない女)であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女(サラ)は(サラがアブラハムの子孫を生むと)約束してくださった方(全能の神)を真実な方と考えたからです。(サラは、神のことばを信じ、また、神に力がある事を信じ、約束を成し遂げてくださる神に信頼しました)

 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様の(百歳)のアブラハム(と九十歳のサラ)から、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

 これらの人々はみな、信仰の人として死にました。(神への希望と信仰を持ったまま死にました)(生きている間に)約束のものを手にいれることはありませんでしたが、はるかにそれ(神のことばが実現される未来)を見て(神のことばの実現を信じて、相続人の子孫に託して、先祖の中に加わる自分の死を)喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(彼らの待ち望む住まいは、地上の住まいではなく、神とともにある神の家だったのです)」(へブル11:4-13)

 

 「昔の人々はこの信仰によって(神から)称賛されました。(信仰は魂の実体なのです)

 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(信仰がなければ、神のことはわからず、真理を悟ることはできないのです)」(へブル11:2,3)

 

 神は、アブラハムに、アブラハムの子孫を大いなる国民とし、アブラハムを多くの国民の父とすること。また、アブラハムのひとりの子孫(神のひとり子イエス・キリスト)を、諸国の民の祝福の基とすることを、約束されました。

 

 神は、モーセと契約を結び、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫ユダヤ民族を神の祭司の国民「イスラエル」とし、また、御自身を「イスラエルの神」と呼ばれました。

 神は、アブラハムの子孫「イスラエル」を全地において、天地万物を造られた全能の神、主の祭司の国民とされたのです。

 

 神は、イスラエルの王、ダビデに、ダビデの王座をとこしえに立て、ダビデの子(キリスト)がとこしえのイスラエルの王として、着座することを約束されました。

 

 神は、イスラエルに、世の罪を取り除く神の子羊(神の御子イエス・キリスト)を遣わされました。ダビデに約束した、ダビデの王座にとこしえに着座されるイスラエルの王「神の御子イエス・キリスト」です。世界を救う救世主です。神は、アブラハムのひとりの子孫イエス・キリストによって、世界を救われます。アブラハムから出たキリストは、世界の祝福の基なのです。

 

 救世主イエス・キリストは、死から甦られたその御力により、キリストの御霊となって、人々を救われます。

 神は目に見えない霊なるお方です。目に見えないものが永遠なのです。目に見えないものを確信させるのが、キリストの御霊です。

 

 アブラハムが信じ従った全能の神、主を民族の神とするのが、イスラエルです。しかし、イスラエルの信仰は、アブラハムの信仰とはかたちが異なります。

 

 アブラハムは、聖書のないときに、自分の魂で神をとらえ、自分の霊で目に見えない神を見えるように見、また、自分の霊で耳に聞こえない神の御声を聞きました。

 

 イスラエルは、聖書によって、神を知っていると思っていますが、アブラハムが信じた霊なる神はぼんやりとしています。父祖アブラハムが霊の目で神の栄光を見、霊の耳で神の御声を聞いていたような、生きた信仰ではありません。

 

 アブラハムの信仰を受け継ぐはずのイスラエルの信仰は、土地の相続の実現とキリストを待ち望むことです。神御自身はどこへ行ってしまったのでしょうか。

 

 信仰はあっても、それは形骸化された宗教となってしまいました。

 アブラハムの信仰は、宗教ではありませんでした。アブラハムは、生けるまことの神を自分自身の霊で崇める、霊とまことの礼拝者でした。アブラハムの神は、生きていたのです。アブラハムは、生ける神を信じ生ける神に従う信仰の相続者です。

 エノクを天に移された神、ノアを大水から救い出された神、いのちとともにある神、自然界に満ち満ちておられ語りかける神が、アブラハムの神です。

 

 神は、アブラハムの信仰の相続者を、「アブラハムの子孫」と呼ばれます。

 アブラハムは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会を待ち望んでいました。

 

 キリスト教会で、真理の御霊を受けて新生する神のこどもたち。また、神道、仏教、そのほかの宗教、無宗教の人たちの中で、自然との調和を持つ魂と生けるまことの神をとらえる霊的感性が開かれた人たちが、生かす御霊(目に見えない霊ですが確かにおられる風のような神の御霊)を受け入れるとき、彼らは真理を悟るのでしょう。

 

 霊なる神を信じ、目に見えないものを確信させる御霊の信仰を持つ人たちが、アブラハムの信仰を受け継ぐ者となり、彼らによってとこしえの御霊の教会は建て上げられるのでしょう。

 永遠のいのちを得させられる七つの御霊の教会は、アブラハムの信仰を受け継ぐ、アブラハムの契約の相続者なのです。