ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

お帰り

 

 「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。

 しかし、この(パウロのもとに来た)群衆を見たユダヤ人たちは、妬みに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。

 そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。

 『神のことばは、まずあなたがた(ユダヤ人)に語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。(神に遣わされた神の御子イエス・キリストは、イスラエルを救うために来られました。イスラエルは、全地において神が選んだ神の祭司の国民だからです。神の祭司の国民が神の御子イエス・キリストを信じて救われ、救いを得たユダヤ人たちが全世界に福音を宣べ伝えて終わりを迎えるはずでした。しかし、ユダヤ人たちは、「神の子だ。」と言うイエスを妬みました。そして、イエスを十字架につけて言いました。「神殿を打ち壊して三日のうちに建てる(と言う)者よ。もし(おまえが本当に)神の子なら、(十字架の上の惨めな姿の)自分を救え。そして、十字架から降りて来い。」〔マタイ27:40〕、「(病人を癒したり、悪霊を追い出したりして)他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架から降りてみよ。そうしたら信じよう。彼(イエス)は神に頼っているが、神の思し召しがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから。」〔マタイ27:42,43〕。こうして、ユダヤ人たちは、神が愛される神のひとり子を嘲りののしって、キリストのからだ、すなわち、神の子どもになるのを拒みました。神の御子イエスを拒むことは、御救いを拒むことです。御救いを拒むことは、永遠のいのちを拒むことです。ユダヤ人たちは、自分自身で、神の御救いを拒み、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めました。神に退けられたのではなく、ユダヤ人自身がみずからの意志で天の御国を拒み、永遠に生きる神の子どもにならないことを選択したのでした)

 見なさい。私たち(パウロとバルナバ)は、これからは(無割礼の)異邦人のほうへ向かいます。

 なぜなら、主は私たちに、こう命じられておられるからです。

 「わたしはあなたを立てて、異邦人の(御救いの希望の)光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」』

 異邦人たちは、それを聞いて、喜び、主のみことば(イザヤ書49:6)を賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちはみな、信仰にはいった。」(使徒13:44-48)

 

 神は、アブラハムの血肉の子孫から世界の祝福の基となる救世主「神の御子イエス・キリスト」を生むことと、ユダヤ民族を救うことと、ユダヤたちがキリストの福音を世界中に宣べ伝えて、あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる言語の人々に御救いをもたらすことを計画しておられました。

 

 ユダヤ人たちが、神の御子イエス・キリストにつまずくと、神は、厳格なユダヤ教徒の中からパリサイ人のパウロを召し出して、異邦人の使徒とされました。パウロは、神の御計画に従って、あらかじめ定められていました。

 

 神が御救いを定めておられるユダヤ民族以外の、異邦人の中にも、永遠のいのちに定められている人たちがいるからです。同様に、異教徒や無宗教の人たちの中にも、永遠のいのちに定められている人たちがいるのでしょう。

 

 それは、魂の学びの過程で、神の近くを歩んできた魂の人のようです。今生の生命が始まる以前に、神に覚えられる生き方をした魂なのではないかと思います。

 

 今年、2025年は、神に向く人と向かない人、霊が開かれる人と閉じたままの人、光を求める人とこの世を愛する人の二極に分かれるそうです。

 

 光を求める人たちは、すでに、目に見えない霊的なものや普遍のものや、何が真実かを思い巡らし真理を追求したり、永遠のものを求める感性が開かれたり、魂の安らぎを求め始めているのかもしれません。

 

 神が永遠のいのちに定めておられる魂は、魂の羊飼いの声を知っているようです。

 

 イエスはユダヤ人たちに話されました。しかし、彼らは信じませんでした。

 「ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。

 『あなた(ナザレのイエス)は、いつまで私たち(キリストを待ち望んでいる契約の民であるユダヤ人たち)に気をもませるのですか。もしあなた(ナザレのイエス)がキリスト(メシア)なら、はっきりとそう言ってください。(キリストを知るのは知識ではなく、信仰によります。ユダヤ人たちは、イエスが病人を癒したり、悪霊を追い出したり、神のことばを語り、不思議としるしを現わしているのを目撃していながら、イエスを信じることができませんでした)

 イエスは彼ら(ユダヤ人たち)に答えられた。

 『わたし(イエス)は話しました。しかし、あなたがた(ユダヤ人たち)は信じないのです。わたし(イエス)が父の御名によって行なうわざが、わたしについて(イエスが神から出た者であることを)証言しています。

 しかし、(心頑なな)あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。(神のひとり子イエスを信じない者は、イエスを遣わした神をも信じないのです。神を信じない者は、永遠のいのちにふさわしくありません。永遠のいのちにふさわしくない者は、永遠に生きるキリストのからだ(神の子ども)になることはできません)

 わたしの羊(神の子ども)はわたしの声(魂の飼い主である救い主イエス・キリストの声)を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。(彼らの魂は、キリストのからだに組み込まれます)そして彼ら(神が永遠のいのちに定めておられる魂たち)はわたし(魂の牧者)について来ます。

 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

 わたし(神の子羊イエス・キリスト)に彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父(創造主であり、救い主と助け主を遣わすお方、また、裁き主であられる全能の神、主)の御手から彼ら(の魂)を奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(神御自身が守られます)」(ヨハネ10:24-30)

 

 神に永遠のいのちが定められている魂は、神のみもとに帰るまでは、さまよっています。彼らの魂は渇いていることでしょう。

 

 「私の魂は、神を、生ける神を求めて渇いています。

 いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(詩篇42:2)

 

  そして、魂の牧者のもとに帰るときが来ます。

 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。(イエスのことばは、いつも真実であり、父のことば、すなわち、真理を語っておられたのです)

 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方(父なる神)にお任せになりました。

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです。(キリストの贖いの血により神と和解し、神の栄光を見ることができるようになりました)

 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分の魂の牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(霊の父、魂の父のもとに帰った魂は、信仰の結果である、魂の喜びと平安と救いを得ました)」(ペテロ第一2:22-25)