「(神に信頼する)信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人(病人)を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(癒しを神に求めました。その結果、神は、その人を癒されます。神が癒されたということは、その人の罪も赦されたということです。なぜならば、神が癒してくださることを心から信じ神に望みを持つ信仰が、その人のうちにあったからです。祈りの人が祈っても、祈られている人のうちに信仰がないならば、何も起こりません。しかし、祈る人の祈りと共振する祈りを心のうちに持ったからこそ、神は、その人の信仰を御覧になって、その信仰を義とみなされ、みわざをなされました。彼は、神を信じたのです。神はその信仰に答えられました)
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。癒されるためです。(心に闇を抱えたまま祈っても、光は届きません。罪を言い表わすならば、その罪は赦され、心に光が届きます。なぜならば、神の約束だからです。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理〈真実な信仰と神への愛〉は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、〈自分は神に対して罪を〉犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。」〔ヨハネ第一1:8-10〕私たちは、いのちの根源であられる神からずれているから、不具合が起きているのです。神からずれていることが「罪」なのです。この罪を赦し、私たちの汚れをきよめるために、神は、ひとり子イエスを遣わされました。神の御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます。自分は罪を犯していないと言う者は、神の御子イエスの血による罪の贖いのみわざを意味のないものとし、神を信じない者です)
義人(神を信じるその信仰によって義とされる人)の祈りは働くと、大きな力があります。
エリヤは、私たちと同じような人(肉体のある人間)でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び(エリヤが)祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブ5:15-18)
イエスは言われました。
「神を信じなさい。
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになる(必ず成る)と信じるなら、そのとおりになります。
だから、あなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けた(すでにかなえられた)と信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
また(神の御前に)立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。(赦す者は赦されるのです)」(マルコ11:22-25)
残念ながら、クリスチャンの多くは、この祈りの力を信じていません。信じていないので、口先だけの祈りをするのです。口先だけの祈りに、神は動かれません。それゆえ、祈りの成就の経験がないので、ますます、形だけの祈りとなります。
しかし、聖書を知らない日本人のほうが祈りの力を体験しています。クリスチャンは、キリストの血を受け取っていない日本人の祈りは、神から義人とされていない人々の祈りであって、その祈りは神ではない霊にささげられており、悪霊の力でその祈りがかなっているだけだ、と思うかもしれません。
しかし、全地にあって生けるまことの神は、唯一の神。あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる言語のすべての人を造られた、いのちの根源であられます。キリスト者の神ではなくて、全地の生きとし生けるものの神であられ、愛と赦しの中に住まわれるお方であることを見過ごしています。
彼らは、口先の祈りではなく、心から注ぎ出す信仰の祈りをしています。目には見えない神がわからなくても、祈りを聞いてくださる霊なる存在を信じて、自分自身の霊によって魂の真実な祈りを注ぎ出しているのです。
この祈りこそ、生けるまことの神に受け入れられる祈りです。罪の概念や悔い改めの概念がなくても、祈りを注ぎ出すうちに、自分の中にある闇の心を捨てているのです。彼らは、闇の思いを捨て、自分の益や肉の欲望を捨てて、光を見つめて、霊なる神を仰いでいるのです。
日本には、神に祈りをもって近づき、民のために執り成す大祭司「天皇」がおられます。2600年の間、日本列島と日本人は、この大祭司の執り成しに守られて来ました。また、日本列島の各地にある神社の宮司たちの祝詞によって守られて来ました。
そして、神の御子イエス・キリストの血によって贖われ、天においても、地においても、天の神から主権が与えられている神のひとり子キリスト・イエスから祭司の務めを受けているキリスト者たちも、日本列島に起こっています。
キリスト以降、レビ族の祭司の務めは、天の聖所で仕えるとこしえの大祭司キリストの務めへと移行しました。キリスト者による魂の救いを執り成す時代に移行したのです。魂の救いの働きは、魂の救いを受け取っている人たちの務めです。
レビ人の祈りは、地上の祈りです。しかし、キリストが分け与えられる御霊によって執り成すキリスト者たちの祈りは、とこしえの大祭司イエス・キリストにささげられます。天の聖所の大祭司、とこしえに生きるキリストが、御座におられる方(生けるまことの神、いのちの根源)に、その祈りを届けられます。
キリスト者の祈りは、神の御子イエス・キリストの御名による祈りであり、御霊による真実な祈りであるべきですが、多くのクリスチャンはこの祈りを体験していないと思われます。
自分の知性の言葉で祈りをする人が多いのです。御霊の祈りは、御霊によって祈る祈りです。なぜならば、霊なる神のことは、霊なる御霊によらなければわからないからです。御霊は、真理を教え、どう祈ったらよいかを導いてくださいます。
神は、私たちすべてのために、御自分のひとり子をさえ惜しまずに死に渡された慈しみの主、私たちを愛しておられるお方です。
御自分の御子をさえ私たちにお与えになられた神が、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神は、真理を教える御霊をキリスト者一人一人に授けてくださいます。
イスラエルの家を造られた陶器師である主は、仰せられます。
「見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら(主を仰ぎ、主にへりくだるなら)、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。
わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それ(その国、その王国)がわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。
さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。
『主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道(神に信頼せず、信仰によって歩まない人間の道)から立ち返り、あなたがたの行ないとわざ(不信仰と神への不従順)とを悔い改めよ。(神に立ち返るなら、神はわざわいを思い直される)』」(エレミヤ18:6-11)
鹿児島県のトカラ列島で地震が頻発しています。
神は、日本人の集合意識の祈りを聞き届けてくださり、少しずつ地殻をずらすことで破壊的大災害とならないように、取り計らっておられるように思います。
集合意識の祈りは、「個」の祈りではありません。自分自身の利得を求めるためでもなく、自分の名を上げるためでもなく、人間の肉の欲を脱した祈りです。
日本国の守りと祝福のため、みなの心がひとつになりました。天皇の祈りに等しい、純粋な執り成しの祈りです。
そこに、イエス・キリストの御名を呼ぶ者がいなくても、神は、彼らの祈りに耳を傾けられます。彼らが、神に助けを求め、霊とまことによって愛の心を注いでいるからです。
そして、その祈りを天に届けたのは、少数のクリスチャンの祈りだったと思います。クリスチャンの祈りは、数が少なくても、天と地を繋ぐ強い力があるように思うからです。
富士山に鎮座しておられる国常立の神は、復活のイエス・キリストの姿のように思われます。
名前は、和名ですが、実体は、新しい神代を開かれるキリストではないのかと思うのです。
富士山から、みことばが発せられ、波に命じられたように思います。
「ここまでは来てもよい。
しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここで留まれ。」(ヨブ38:11)
日本人は、祈りの力を回復したのではないでしょうか。それは、「個」ではない、「心ひとつとする集合意識」の祈りによってです。
そして、祈りの霊が注がれた日本人は、伊勢神宮などの日本列島のおもだった神社で祈るように、日本のため、日本民族のためという大きな祈りが、ひとり一人の祈りから生まれて来ることになるでしょう。
日本人の霊が覚醒し、霊なる神に思いを向け、永遠への思いをもって真実な心で生きる日本人の純真な感謝の心といのちへの希望の光は、日本を祝福し、大きなわざわいから守ることでしょう。
キリスト者たちは、日本人の祈りが天に届けられるように執り成しましょう。