目に見えないからといって、神を否定することは真実ではありません。
神は、肉体の人にも、霊なる神がわかるようにと、人に五感を与えておられます。
人の魂は、グラデーションカラーの夕暮れに、自然の色彩や光に、光の故郷の遠い記憶を刺激されて、懐かしさがこみ上げてきます。
人の魂は、美しい花々の香りや果物の匂いに、エデンの園の自由だった日々の記憶を刺激され、肉体の不自由を忘れるかのような安らぎで満たされます。
人の魂は、鳥のさえずりや水の音に、たえなる魂の音楽を味わっています。
人の魂は、風が頬を優しく行き過ぎるとき、神の愛に満たされていた頃の遠い記憶に、懐かしさを覚えます。人は霊なる生き物なのです。
人の魂は、からだに良い自然の食べ物を食べるとき、舌は喜び、良きもので満たされていたエデンの園の守りのある安心と害するもののない優しい穏やかな心を抱きます。
人が神の存在を否定しても、魂は、神を知っています。そして、自然の中に存在する、いのちを知っています。植物も動物も、虫も鳥も、すべてのものがいのちを明らかに見せてくれています。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物(私たちを取り巻く自然にあるすべてのもの)によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らには弁解の余地はないのです。
というのは、彼らは、神(いのち)を知っていながら、その神(いのち―人は生まれるのも死ぬのもわかりません。しかし、事実、人は生まれて生きており、また、死んで行くのです。この営みを統べ治められる生けるまことの神。―「いのちの根源」であられる神)を神としてあがめず、(生かしてくださる神に)感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり(永遠ではないむなしいものを追い求め)、(神を知ろうとしない)その無知な心は暗くなったからです。
彼らは、自分では(道理をわきまえる)知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄え(霊なる神)を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物(偶像)と変えてしまいました。(山を見れば山に神がおられ〈臨在があり〉、空を見れば空に大いなる神がおられ、自然界にはいのちが満ち満ちているのに、人の作った偶像の中に神を求めています)
それゆえ、(生けるまことの)神は、(真理を知ろうとせず闇を愛する)彼らをその心(彼らの心)の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(神が、一体の男と女、すなわち、一対の夫妻に与えられたいのちを生む営みを、夫や妻以外と結び、自分自身のからだを汚しています。彼らは、それが悪霊と交わっていることに気づいていません。彼らは、本来一体となってはいけない者と交わり、神の道から外れ、罪ある者となっています)
それは、彼らが神の真理を偽り(神でないもの)と取り換え、造り主の代わりに造られた物(被造物)を拝み、これに仕えたからです。(すべての被造物は、人間と同じものであって、罪の呪いの死を受けて、神の裁きが定められています。被造物には、人を救う力はありません。どんな被造物も、人を救うことができません)
造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。」(ローマ1:20-25)
世を愛するキリスト者たちに、パウロは言います。
「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。(罪に汚れた遊女のからだとなるならば、もはや、キリストのからだではありません。キリストは、罪を赦すために、ご自分の血を流された救い主です。罪を犯す方ではありません)
遊女(罪を愛する者)と交われば、(罪に溺れた遊女と)一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです。(罪を愛する者と一体になることは、自分自身も罪に汚れた者となることです)
しかし、主(主の御霊)と交われば、(キリストと)一つ霊となるのです。(キリストのからだの一部です)
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。(からだを汚す罪ではありません)しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(御霊を受けたあなたがたは、神にささげられたものです)
あなたがたは、(神の子羊イエスの血の)代価を払って(罪の呪いを着せる悪魔から)買い取られたのです。(もはや、罪の奴隷ではありません。悪魔の誘惑する罪の縄目から解かれて、自由となったのです)ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(ひとり一人に分け与えられた賜物を用いて、神の栄光を現わすことは、魂に喜びと平安が訪れます。神は、この世で受けることのできない天上の喜びをお与えになります)」(コリント第一6:15-20)
不滅の神の御栄えを、ほかのものに代えるならば、その人の思いは神から離れ、その慕うもの(神に代わる偶像)から、自分の欲望を満たす汚れへと引かれて行きます。そして、自制がきかず、心の欲望のままに汚れに引き渡されるのです。
神は、その人の心にあるまま、彼らを恥ずべき情欲に引き渡されます。神が、罪を犯す状況をお与えになるのではありません。人の思いが、その罪を引き寄せるのです。
罪の泥沼にはまり、身動きの取れない不自由の中で、我に返る人もいるでしょう。あるいは、罪が発覚して、我に返る人もいるでしょう。
そのとき、光を求める人は、救ってくださる方を求め、罪を悔い改めるのでしょう。欲望の中に愛はなく、いのちも光も救いも平安もない事を悟り、自分の愚かさを告白し、神に立ち返って罪から離れるのです。
しかし、わきまえのない者は、不義を行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なう者であり、また、それを行なう者に心から同意する者です。
造り主から離れた魂は、まことのいのちを求めてうめいています。
造り主に帰った魂は、いつもいのちの主を喜び、絶えず主に祈り、造り主に感謝しましょう。
造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方だからです。
造り主(いのちの根源であられる霊なる神)をたたえているならば、悪魔は近づくことができません。
パウロは奨励します。
「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神(造り主)があなたがたに臨んでおられることです。
御霊を消してはなりません。(御霊の導きを打ち消して自分の欲望のまま歩んではなりません)
預言(神のことば)をないがしろにしてはいけません。(神の忠告や警告は、永遠のいのちの守りのためです)
すべてのことを(霊的に)見分けて、(霊的感覚によって)本当に良いもの(永遠のいのちを得させる神からのもの)を堅く守りなさい。
悪はどんな悪でも避けなさい。
平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。
主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、魂、からだが完全に守られますように。」(テサロニケ第一5:15-23)