ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスが示された死後の世界のたとえ

 

 イエスは、金の好きなパリサイ人たちに、たとえを話されました。

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 ところが、その(金持ちの家の)門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。(アブラハムの子孫であるユダヤ人のラザロが死ぬと、ラザロの魂は、イスラエルの契約と祝福の基である信仰の父アブラハムのふところに連れて行かれました)金持ちも死んで葬られた。(アブラハムの血肉の子孫である金持ちは、アブラハムの信仰を受け継がなかったため、アブラハムのふところへは連れて行かれませんでした)

 その金持ちは、ハデス(燃える火の池)で苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところに(生前、金持ちの家の門前で寝ていた貧乏人の)ラザロが見えた。

 彼(金持ち)は叫んで言った。

 『(私たちイスラエルの)父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私(金持ち)の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。(金持ちは、死んでも、自分は金持ちで豊かな者であり、ラザロは貧乏人で惨めな者だ、という意識を持っていました。しかし、肉体を脱いだ魂は、金持ちも貧乏人もありません。みな、等しいものとされます。そして、生前の信仰の有無によって、天と地とに分かれるのです)』

 アブラハムは言った。

 『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。(金持ちは、高貴な人が着る紫の衣に身を包み、ぜいたくに遊び暮らしていました。一方、貧乏人のラザロは、金持ちから施しをもらえると期待しましたが、金持ちはラザロに施すことはありませんでした。(ユダヤの律法では、貧しい者に施しをすることを命じられています)ラザロは、人間としての尊厳はなく、日々の食べ物にも欠くような、犬にも劣る惨めな生活をしていました)しかし、(肉体を脱いで死後の世界にはいった)今ここで彼(生前悪い物を受けていたラザロの魂)は慰められ、おまえ(貧乏人に施しをしなかった金持ちの魂)は苦しみもだえているのです。

 そればかりでなく、私たち(信仰によって神に受け入れられたアブラハムとラザロの魂)とおまえたち(神の掟を守らず、神を神としなかった金持ちたちの魂)の間には、大きな淵があります。ここから(天上から)そちら(地の下)へ渡ろうとしても、渡れないし、そこ(地の下)からこちら(天上)へ超えて来ることもできないのです。(天の御国と、地の下の火の池との間には、決して渡ることのできない大きな淵があるのです)』」(ルカ16:19-26)

 

 聖書では、天に上る魂を「人の子らの霊」と呼び、地の下に下る魂を「獣の霊」と呼んでいます。

 

 「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。(天に上る人の子も、地の下に下る獣も、一度死んで肉体を脱ぎ、もともとの霊の存在である「魂」にもどる)これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。(人の子も、獣も、息をして生きている)人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。(永遠に存在するものはない。すべて、あると思ったら消えていくなのだ)

 みな同じ所に行く。(人の子も獣も、一度死んでみな朽ちて行く)すべてのものは塵から出て、すべてのものは塵に帰る。(被造物は土の塵から造られて、息をして生きる。神が、息を取り去られると、すべてのものは死んで、もとの塵に帰る)

 だれが知っているだろうか。人の子らの霊(神のひとり子イエス・キリストを頭とするキリストのからだ、すなわち、永遠のいのちを得させられる魂)は上に上り、獣の霊(神の御子キリストに敵対する悪魔を頭とする、反逆者〈反キリスト〉のからだ、すなわち、永遠のいのちを得られない滅びの子の魂)は地の下に降りて行くのを。」(伝道者3:19-21)

 

 人として生まれたアダムの子孫は、肉体をもって生きている間に、罪が贖われ神と和解して永遠のいのちを得させられる「人の子」として生きるか、生まれつきのままの状態で贖われることなく自分の肉の欲のまま「獣」として生きるかを選択します。

 人は、人生にそのような大きな課題が秘められていることに気づかないまま、思い思いに生きます。

 そして、最後の裁きで、それぞれの魂に判決が下されるのです。

 

 「人の子」とは、エバを騙した蛇の頭である悪魔を踏み砕き、罪の呪いの「死」に怯える魂たちを救い出す、神のひとり子イエス・キリストをさします。

 「獣」とは、エバを騙した蛇の頭である悪魔をさします。

 

 人は、キリストにつく者、すなわち、キリストの血によって罪が贖われた「人の子の霊」とされるのか、または、生まれつきのままの人間、罪の奴隷の「獣の霊」として死ぬのかを、生命のある間に選択することになります。

 

 金の好きなパリサイ人たちは、イエスをあざわらっていました。

 しかし、イエスは言われます。

 「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心を御存じです。(判決を下すのは、人ではなく、神なのです)

 人間の間で崇められる者は、神の前で憎まれ、嫌われます。(天は、彼らに味方してくれません)」(ルカ16:15)

 

 パリサイ人は、律法を守ることに熱心なユダヤ人です。しかし、お金も愛していました。彼らの心は、神に仕えながら、富とこの世の誉れにあったのです。

 

 律法に熱心な者が、「人の子の霊」ではありません。

 神に霊とまことによって仕え、神のみことばの成就である「神の御子キリスト」を心に迎え、信仰によって、神と和解する者です。

 罪が赦されて神との和解へと導くのは、天の聖所で仕えるとこしえの大祭司イエス・キリストであり、罪を捨てる歩みを助けるのは、イエス・キリストの御名によって与えられる真理の御霊です。

 

 アブラハムは、信仰によって、神に義とされました。

 人は、信仰によって、永遠のいのちを得させられ、復活の新しいからだを得させられる「新しい人」に造り変えられます。

 信仰がなければ、天の御国にはいることはできません。

 

 神の律法を信じ、金持ちから施しがもらえると信じたラザロは、神を信じる信仰によって、信仰の父アブラハムのふところに行きました。御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれたのです。

 

 しかし、神の律法をあなどり、自分の思うまま生きた金持ちは、アブラハムの血肉の子孫であるのに、アブラハムの信仰(生けるまことの神、すなわち、全能の神、主への信仰)を持つことがなく、信仰の父アブラハムのふところに行くことはできませんでした。

 

 「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル9:27)

 

 死後の世界では、神への信仰のある者と、信仰のない者とに分かれるのです。

 そして、そのふたつは、互いに混じり合うことはなく、明確に分かれるのです。