ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

感謝する心は、魂のバロメーター

 

 「ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。』と言った。

 イエスはこれを見て、言われた。

 『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(らい病の判定は、祭司の務めでした。祭司がらい病を認めて汚れていると宣言するならば、隔離されなければなりません。しかし、祭司にきよいと宣言されるならば、らい病は癒されており、家族のもとに帰ることができます)』彼らは(祭司のもとに)行く途中で癒された。(らい病の症状が、身体から消えました)

 そのうちのひとりは、自分の癒されたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。(混血のサマリヤ人は、ユダヤ人から外国人とみなされ、イスラエルの民から除かれていました)

 そこでイエスは言われた。

 『十人癒されたのではないか。(あとの)九人はどこにいるのか。

 (らい病を癒してくださった)神を崇めるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(ユダヤ人の中には、神のことばをくださったイエスのもとに来て、神のみわざをたたえ、神に感謝する者は、ひとりもいませんでした。神に感謝することのない、愛の冷めたユダヤ人たちの不信仰に、イエスは驚かれました)』

 それからその人(イエスに感謝するために戻って来た外国人)に言われた。

 『立ち上がって、行きなさい。(これからは、正しい道を、真っすぐに歩みなさい)あなたの(神により頼む)信仰が、あなた(の神の道からずれた心をただして、神に向き直らせて、身体に現われていた不具合い、すなわち、らい病を)直したのです。(この外国人は、イエスのことばを信じ従ったことで、神を神としない不義を取り除かれました。そして、神に感謝することで、いのちの根源から外れていた魂は、いのちの主を仰ぐ恵みを得たのです)」(ルカ19:12-19)

 

 神は、人の目に見えないお方です。しかし、人は、神のみわざを見て、神の働きを知るのです。

 神の働きを見ても、感動しないユダヤ人に比べ、神の民ではない外国人のサマリヤ人は感動と感謝で心を奮わせました。

 

 おそらく、ユダヤ人たちは、らい病の症状が消えて、家族のもとに帰ることができる自分を喜んだことでしょう。彼らの喜びは、自分自身にあったのです。

 

 サマリヤ人は、らい病の症状が消えて、罪の呪いが解かれたことを知り、癒してくださった神に感謝しました。そして、神のみわざを行なってくださったイエスに感謝するために戻って来ました。

 サマリヤ人にとって、神をほめたたえることは、ごくごく自然な行ないでした。自分に良くしてくださったことを忘れませんでした。このサマリヤ人の喜びは、外国人である自分をも愛して、良くしてくださった神にあったのです。

 

 「わが魂よ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

 わが魂よ。主をほめたたえよ。主の欲してくださったことを何一つ忘れるな。

 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し、あなたのいのちを(死と滅びの)穴から贖い、あなたに、恵みと憐みとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

 あなたの若さは、わしのように、新しくなる。(あなたは、生き生きとした力がみなぎり、大空をかけるわしのように高く高く舞い上がり、あなたのいのちは、日々新しくなる)」(詩篇103:1-5)

 

 このサマリヤ人は、神に愛されたダビデのような心境だったのでしょう。サマリヤ人には、神の愛を信じる信仰があったのです。

 

 「感謝する」ことは、神の栄光です。

 サマリヤ人の感謝は、イエスに、神のひとり子としての栄光を、また、いのちの神に、生けるまことの神の愛と恵みの栄光を現わしたのです。

 

 それは、サマリヤ人のうちに、神に喜ばれる信仰、すなわち、神の栄光をたたえる「純粋な信仰」があったからです。

 

 律法の下にいたユダヤ人たちは、律法を守ることで、自分を義としていました。自分自身のわざが自分を守るかのようです。彼らは、自分の義に立っていました。

 しかし、律法の下にいない外国人は、神を義とし、神御自身を頼みとしました。そして、神に受け入れられたのです。

 

 感謝する心は、魂の健やかさをはかる秤のようです。

 もし、感謝の気持ちがないならば、ギスギスします。魂は、傷んでいます。

 もし、感謝する心はあっても、素直に表現できないならば、愛されていることがわからないからです。魂は、神でないものに脅かされているのです。

 

 魂が健やかになってから、感謝するのでしょうか。

 

 御霊を消さないことです。恵みを恵みとして捉えられないこと、愛を愛として理解できないことは、魂の状態が重症なのかもしれません。放っておかないほうがいいです。

 

 自然の中で静かな時を持ちましょう。心の重荷を、神にあずけましょう。一つ一つ、神の御前に言い表わして、楽になりましょう。

 

 神から、魂の御救いの権限を与えられている神のひとり子イエスは言われます。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(創造主)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたも(自分の荷をおろして)わたしのくびきを負って(イエスとともに歩むことは、罪の解放といのちの歩みをすることです)、わたしから学びなさい。(自分や人の知識や知恵によって聖書のみことばを学ぶのではなく、イエスが与えられるキリストの御霊によって教えられて、自分の霊によって神を知りなさい)そうすれば魂に安らぎが来ます。(御霊は、混ぜ物なく、真実を教えてくださるからです)

 わたしのくびきは負いやすく(ここちよく)、わたしの荷は軽いからです。(神が、ひとりひとりに分け与えてくださる御霊の賜物は、心に喜びと楽しみと活力を与え、信仰を成長させてくれるものです。この喜びと平安とを味わうならば、もはや、魂は気落ちすることはありません)」(マタイ11:28-30)

 

 神が望んでおられることは、いつも喜んでおり、絶えず祈ることであり、すべての事について感謝することです。

 感謝ができなくなっていることに気づいたならば、自分自身を休ませてあげましょう。神からではない重荷を、負っているのではないでしょうか。

 

 そして、神とひとつになっていない心を悔い改めて、神に助けを求めましょう。

 神は、必ず、手を差し伸べてくださいます。

 幼子のように素直になれば、神の御手に安らぎを見い出すことでしょう。