ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の愛に立ち返れ

 

 「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)

 

 信仰を続けていると、時々神の愛がぼんやりとなることがあります。

 キリスト者は、「神は愛なり。」と聖書のみことばを知識として知っており、また、キリスト教は愛の宗教だ、なんて口にしますが、実際のところ、神に愛されているということがわからなくなる時があります。

 

 神は、すべてのものを愛しておられる大きな愛のお方だということはわかりますが、私個人は、すべてのものを愛しておられる神の、その大きな愛の一部分で愛されているように感じたりします。みんなを等しく愛する愛の中で、自分は埋もれた存在に感じたりもします。

 

 特に、クリスチャン同士の間で摩擦があるとき、信仰歴の長い人の方が優位に感じていました。限られた愛を、クリスチャン同士が互いに分け合っているようで、自分に割り当てられた分を、順番を待つ配給制のように感じていたこともありました。

 よって私が愛されているのは、そのほかのクリスチャンたちと等しく愛されているだけで、特別なものとは思えません。すると、自分への愛がちっぽけなものに思える時がありました。

 

 教会で、神の愛はひとりひとりに満ち満ちていると教えられても、ついつい、他人と比較してしまいます。そして、落ち込んで、神の自分への愛がわからなくなり、信仰を持ちながら、心をさまよわせていました。

 

 かつての日本人は、自分自身の存在を「個」ではなく、「集団」の中にあるものという意識を持つ慣習があったので、自分ひとりに焦点が当てられる、という経験が少なかったのでしょう。

 

 今は変わりましたが、自分の意見を持つということはあまりなかった時代の人間としては、集団の中のひとり、みんなの中のひとり、みんな同じ、自分だけ特別というわけではない、という思いが優先します。

 

 幼い子どもは、兄や姉がいても、遠慮なんかしないで、母親に甘えます。兄や姉は我慢します。それで、母親の愛を一身に受けているという感覚ではなく、兄弟みんなで分け合っているという感覚が残っています。

 

 だれかが甘えているときには、だれかが我慢しなければなりません。

 神の愛を、人間の愛の感覚のまま捉えると、愛とは十分にあるものだということが理解できません。

 

 提案です。無理に神に愛されていると思い込もうとせず、また、愛を追究しようとせず、自分自身の過去に思いを巡らしましょう。

 

 神の愛を味わうためには、兄弟姉妹とともにいる時よりも、ひとりになって、静かに神の前に出るほうがよいです。

 

 自分自身の弱さ、間違ったこと、罪や様々な場面を思い返し、そして、声に出して言ってみましょう。

 

 「主よ。私は、○○○をしました。しかし、神の御子イエス・キリストは、私に代わって、私の○○○のために刑を受けてくださり、ご自分の血を流して、『父(神)よ。彼(彼女)の罪をお赦しください。彼(彼女)を罪に定めないでください。』と執り成してくださいました。

 神は、私の○○○を赦してくださいました。神は、『○○○は、あなたから取り除かれた。あなたは、きよい。』と言ってくださいます。ありがとうございます。」

 

 「主よ。私は、病んでいました。しかし、あなたは癒してくださいました。そして、目に光を与えてくださいました。光を見る者とされたのです。感謝します。」

 

 「主よ。私の心は、暗闇の中でさまよっていました。しかし、あなたは私に希望の光を与え、私の手を引いて正しい道へと導き、安らぎを与えてくださいました。感謝します。」

 

 「主よ。私が孤独であったとき、そばにいて慰めを与えてくださいました。感謝します。」

 

 「主よ。人生の海の嵐にもまれる私に、愛をかけてくださり、私は命拾いしました。ありがとうございました。」

 

 「主よ。自分には何もないと落ち込む私に、優しく寄り添い、『わたしはあなたを愛している。』と言ってくださいました。私は、あなたの愛の中に安らぎを見つけました。感謝します。」

 

 「主よ。何の働きもない私に、存在の価値を見失う時、あなたは、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』と言ってくださいました。私は、あなたの愛に慰められました。他者との比較によってではなく、私を愛してくださる主を知りました。」

 

 「主よ。私のうちにある不真実で心が闇に覆われる時、イエスの優しいまなざしはそれをご覧になって心を痛め、そして、見守ってくださいました。

 それで、『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。〈ペテロ第一5:7〉』のみことばを知る者としてくださいました。『あなたがた』の中には、私がいたのです。複数の『あなたがた』という言葉に心を痛める者ではなくなりました。『あなたがた』の中に私は埋もれていません。神は、私に語ってくださるのです。」

 

 「神の懲らしめの御手に心が砕かれる時、神はみことばによって語ってくださいました。『あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。〈ペテロ第一5:6〉』

 みことばは、私の魂になくてはならない食べ物でした。」

 

 「主よ。あなたは、私とともにいてくださいます。私は、あなたを裏切りますが、あなたは私を裏切ることはありません。」

 

 思い出しましょう。主が自分に良くしてくださった一つ一つのことを。不真実なのは、いつも、自分のほうであったことが見えてきます。主は、いつも、真実で、その愛は変わらなかったことを知らされることでしょう。

 

 主キリストは、私たちにいのちを得させるために、ご自分の肉体に死んでくださいました。私たちを滅びから救い出すために、血を流してくださいました。ひとりひとりが、神にとって、大切なものなのです。

 

 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)

 

 キリストは、「人の子」であって、神の御子です。人間とは違います。罪を言い表わすなら、神はその罪を赦し、キリストの血によって、私たちをきよめてくださいます。慈しみと憐れみに満ちたお方です。罪を責めることはありません。

 罪を取り除くために、罪の告白を待っておられる方です。安心して、自分自身の心にあるままを注ぎ出しましょう。心の重荷は解かれて、自由を味わうことでしょう。

 

 キリストは、私たちの友となるために来られ、そして、私たちがそれぞれの重荷をおろし、また、私たちをキリストとともに歩むキリストの家族、神の家族とするために、招いておられるのです。

 

 口に出して言ってみましょう。

 「わが魂よ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 主は、私の咎を赦し、私のすべての病を癒し、私の(希望を見失った)いのちを(滅びの)穴から贖い、私に、恵みと憐みとの冠をかぶらせ、私の一生を良いもので満たされる。」

 

 神との静かな時間をつくることは、初めの愛に戻ることです。お風呂の中でもいいです。神が良くしてくださったことを一つ一つ思い出してみましょう。心が温かくなって、神に愛されているという実感がふつふつと湧いて来ることでしょう。

 この神の愛を味わい、初めの愛を取り戻すことは、だれにも奪われることのない、永遠の財産を取り戻すことです。神の愛の中で憩いましょう。

 

 神の愛を実感して生きることは、神の愛の中を生きる事です。そこには、キリストの御霊がともにおられます。

 

 神の愛を実感し、神の愛を経験しつつ歩むと、私たちは、みことばを、自分自身のこととして受け取るようになるのです。

 「わたし(主)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(永遠のいのちと、新しいいのちの世が用意されています)」(エレミヤ29:11)

 

 神に期待しましょう。

 私たちをいのちをかけて愛してくださる、愛の主とともに歩んで、信仰に成長し、信仰を全うしましょう。