ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ローマ書二章 悔い改めは神の慈愛

 

 「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

 私たちは、そのようなことを行なっている人々(自分も同じことを行なっていながら、他人が行なう同じ行為を許せずに、他人をさばいている人々)に下る神のさばきが正しいことを知っています。(他人の行なう行為を罪に定めてさばく者よ。自分が同じことをしても、自分には罪がないと言う偽善者よ。自分をはかるはかりと他人をはかるはかりとを変えて、自分を義とし、他人を不義とする者よ。他人を不義に定めているあなたもまた、神の御前で神に不義とされることを知らないのか。あなたの高ぶりは、神の怒りを自分の身に招いている)

 そのようなことをしている人々(あらゆる不義と悪と貪りと悪意とに満ちた者、妬みと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者)をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。(そのようなことを行なえば、神の民であっても、死罪に当たるという神の定めを知っているではないですか。その神の定めを知っていながら、それらのことを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているではありませんか。そして、自分の行為には目をふさぎ、他人の行為はよく見えて、自分は神の定めを知っているとばかりに、他人の不義をさばく者はもっと悪いのです)

 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日(最後の裁きの日)の御怒りを自分のために積み上げているのです。(自分自身で、永遠のいのちにふさわしくない者、滅びにふさわしい者としているのです)

 神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。(悔い改めとへりくだりとをもって神の前で罪を言い表わすならば、神は罪をお赦しになります。しかし、悔い改めないかたくなさによって、その罪は残り、そして、神に罪に定められるのです)

 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のもの(神の国と神の義)を求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理(神のことばと神の法)に従わないで不義に従う者(神のことばに従わないで、偽りのことばに従う者)には、(神の)怒りと憤りを下されるのです。(エデンの園の話を思い起こしなさい。神の命令を軽んじて、蛇の語る悪魔の言葉に聞き従った「人」は、エデンの園から追放されて、死んだ者となったではありませんか)

 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

 神にはえこひいきなどはないからです。(最後の裁きは、人種も国も男も女も関係ありません。すべての者は、ひとりひとり、ひとつの天の法によって裁かれるのです。裁きを免れるために、神の子羊の血を受け取りなさい。そして、心をかたくなにせず、心に示された不義を悔い改めなさい。神は、憐れみ深い方ですから、あなたを悔い改めに導いてくださいます)

 

 人は自分の行ないによって、神に義とされるのではありません。神の御霊に導かれる行ない、神にへりくだる心に、行なうべきことが示され、また、神の御霊が悔い改めへと導き、神の法に聞き従う新しい人に造り変えてくださるのです。肉の行ないによってではなく、天から下られた御霊の御思いに導かれた行ないが、魂を救うのです。

 

 善を行なう者は、神の民よりも、御霊の導きに聞き従う純真な心があるでしょう。彼らの心は、神に逆らうかたくなな心ではありません。きよい御霊の促しに敏感で、自分のうちの罪を知り、素直に悔い改めるのでしょう。

 

 神の民は、神に愛されていることを知っているではありませんか。神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじてはなりません。

 

 神の慈愛は、あなたの罪を贖うためではありませんか。

 神の忍耐は、あなたに永遠のいのちを得させるためではありませんか。

 神の寛容は、あなたを天の御国にはいらせるためではありませんか。

 

 良い御計画をお持ちの神の御霊を悲しませてはいけません。

 悔い改めは、神の慈愛によるのです。

 

 「きょう、もし御声(神のことば)を聞くならば、(神の民ユダヤ人たちが心かたくななままで)御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:15)

 

 神にそむきの罪を犯して、荒野で死んで行ったユダヤ人たちが安息にはいれなかったのは、彼らの不信仰のためでした。(イスラエル人を、約束の地、すなわち、彼らの先祖たちが眠るカナンの地に導き上らせるために、奴隷の家エジプトを連れ出された神は、彼らの不信仰と不従順とを怒り、彼らを約束の地にはいらせることはありませんでした)

 

 心頑なにする者は、約束の地にはいることができません。

 かたくなな心のまま歩んで、かつてのユダヤ人たちの二の舞になってはいけません。

 

 神の御子イエスが来られても、彼らは、イエスが神の遣わされたキリストであることを悟ることができませんでした。

 神は、彼らに対して、こう仰せられていたからです。

 「彼らがその目で(イエス・キリストに神のひとり子の栄光を)見、その耳で(神の御救いのおとずれを)聞き、その心で(真理を)悟って、(悔い改めて神に)立ち返り、わたし(生けるまことの神)に(彼らの鈍い心、遠い耳、つぶった目が)癒されることのないためである。(神にへりくだらず、悔い改めることのないかたくなな心の人々は、神が怒って、彼らから悔い改めるへりくだった柔らかな心を取り上げるので、彼らは決して悟ることができません。悔い改めない彼らは、滅びに定められます。御救いに招かれていた人々なのに、永遠のいのちは取り去られます。彼らはみずから、神の慈愛を侮り、悔い改めの機会をないがしろにするので、御霊は彼らのところに留まることができません)」(使徒28:27)

 

 「彼らは心の迷っている民だ。

 彼らは、わたしの道(永遠のいのちを得させる御救いの道)を知ってはいない。」(詩篇95:10)

 

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:7,9)

 

 神は、神の子羊の血を用意して、私たちの罪を赦す道を用意しておられます。そして、私たちの魂を救おうと待っておられます。

 悔い改めは、いのちの根源のみもとに帰るための、私たちの応答です。

 神の慈愛によって、私たちは悔い改める恵みにあずかりましょう。