ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

真理は神の民に託されている

 

 アブラハムに子どもがなく、神の契約のしるしの割礼を受けていないアブラムであった頃、神は、アブラムに仰せられました。

 

 「あなた(アブラム)はこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。

 しかし、彼ら(アブラハムの子孫)の仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。

 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。

 そして、四代目の者たちが、ここ(全能の神、主が、アブラハムとアブラハムの子孫に与えると誓われたカナンの地)に戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」(創世記15:13-16)

 

 そのとき、アブラムにはひとりの妻サライがいました。サライは不妊の女で、アブラムには跡取りがいませんでした。

 カナンの地を与えると仰せられても、跡取りのいないアブラムは、神から与えられる所有地は、アブラムの家の奴隷が相続することとなるのか、と考えました。

 

 すると、主は仰せられました。

 「奴隷がアブラムの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者(あなたの子)が、あなたの跡を継がなければならない。」(創世記15:4)

 

 そして、子どものいないアブラムに、跡取りの子孫は、四百年の間、外国の地で寄留者となり、彼らは奴隷とされて苦しめられることと、神御自身が彼らを苦しめるその国民をさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、その地から出て来て、アブラムに与えると約束されたカナンの地に戻されることを語られました。

 

 神に「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」とのお告げを受けたアブラムは、神に聞き従ってカナンの地にやって来ました。

 しかし、アブラムの時代には、カナンの地はアブラムの所有地ではなく、寄留者として天幕生活をしていました。

 

 アブラムは、神の約束された自分の子どもを待ちきれずに、妻サライの女奴隷でエジプト人の女ハガルとの間に、男の子をもうけました。イシュマエルです。(イシュマエルの子孫はアラブ人です)彼は奴隷の子どもでした。

 神は、奴隷が跡取りとなってはならない、と言っておられました。

 神の御計画の全容が見えないアブラムは、自分の知識と知恵で、神の御計画の道を開こうとしたのです。

 

 神の時が来ました。

 神は、アブラムを高貴な父を意味する「アブラハム」と呼び、妻サライを王女を意味する「サラ」と呼んで、神と契約を結ぶ者のしるしとして、割礼を命じられました。

 肉の割礼から、契約はスタートしました。

 肉に割礼を施す契約の、以前に生まれた奴隷の子イシュマエルは、契約の外の子どもです。奴隷の子は、高貴な父アブラハムの子孫とは呼ばれないのです。イシュマエルは、神の契約の外でつくった子どもであって、跡取りではありません。

 

 神は、不妊の女で、すでに閉経して妊娠が不可能な妻サラに、男の子を与えられました。九十歳のサラは百歳のアブラハムに、ひとり子を産みました。このイサクが、神が約束しておられた「アブラハムの跡取り」であり、「アブラハムの子孫」です。(イサクの子孫はユダヤ人です)

 

 アブラハムは、イサクに全財産を相続しました。そして、妻サラの死後、もう一人の妻ケトラをめとり、六人の息子をもうけ、平穏な暮らしの後、長寿を全うして、妻サラを葬るためにカナンの地に購入した墓に埋葬されました。

 神の契約を受けたのは、その墓に眠るアブラハムとサラであり、アブラハムとサラのひとり子イサクとイサクの妻リベカ、そして、イサクとリベカの子ヤコブとヤコブの妻レアであり、ヤコブの十二人の息子の家族です。

 神は、ヤコブの子孫十二部族のユダヤ民族イスラエルを「アブラハムの子孫」と呼ばれます。

 

 イサクの子ヤコブ(イスラエル)に、アブラムに仰せられたアブラハムの子孫が通るべき四百年間の奴隷生活が成就しました。ヤコブの一家は飢饉の中で、豊かな牧草地と食糧のあるエジプトの地に移住して、寄留者となりました。その後、ヤコブの家は、エジプトの奴隷とされ、エジプト人に苦しめられました。

 

 そして、四百年が満ちる頃、神は、ひとりの人(モーセ)を立てて、アブラハムにお告げになったとおり、イスラエルをエジプトから連れ出されました。

 

 アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、モーセに現われて仰せられました。

 「『わたし(主)はあなたがた(アブラハムの子孫ユダヤ民族)のこと、またエジプトであなたがた(イスラエル)がどういう仕打ちを受けているかを確かに心に留めた。

 それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地(父祖アブラハムに所有地として与えると約束したカナンの地)へ上らせると言ったのである。』

 彼ら(イスラエル)はあなた(モーセ)の声に聞き従おう。あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『へブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主に生贄をささげさせてください。』と言え。

 しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。

 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行なうあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼(エジプトの王)はあなたがた(イスラエル)を去らせよう。

 わたし(全能の神、主)は、エジプトがこの民(イスラエル)に好意を持つようにする。あなたがたは(エジプトの地を)出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。

 女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」(出エジプト3:16-22)

 

 神のことばのとおり、あらゆる不思議で、神は、エジプトを打ち、イスラエルは、多くの財産(金、銀、着物)を持って、エジプトから出て来ました。

 

 神は、奴隷の家エジプトから連れ出されて約束のカナンの地に導き入れられたことを記念するようにと、命じられました。

 イスラエルは、3305年経った今も、モーセに命じられたとおり、過越しの祭りを祝っています。

 

 申命記には、子どもがこの祭りの意味は何かと尋ねたときに、説明するためのことばが記載されています。

 「私たち(アブラハムの子孫のユダヤ民族)は、エジプトでファラオの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たち(イスラエル)をエジプトから連れ出された。

 主は私たちの目の前で、エジプトに対し、ファラオとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない(神は、エジプト人がイスラエル人に行なっていたことを、そのままエジプト人の上に返されたのです)、私たち(イスラエル)をエジプトから連れ出された。

 それは私たちの先祖たちに誓われた地(アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地)に、私たち(アブラハムの子孫)をはいらせて、その地(カナンの地)を私たち(イスラエル)に与えるためであった。

 それで、主は、私たちがこのすべての掟(出エジプトを記念する過越しの祭りなど)を行ない、私たちの神(イスラエルの神)、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。

 私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。(過越しの祭りを祝うことは、神の命令を守る神の民イスラエルを、神が義とされることです)」(申命記6:21-25)

 

 先日テレビ番組で、エジプトの王ラムセス2世が、穀物を貯蔵する倉を造ったこと(聖書には、神の知恵により、七年の豊作の後に七年の大飢饉が来ることを知ったユダヤ人ヨセフが、ファラオにエジプトの大臣に任命され、そして、ヤコブの子ヨセフが、大飢饉に備えて、七年間の豊作で収穫した穀物を納める倉を造ったことが書かれています。この穀物を求めて、エジプト人は金銀宝、家畜、農地を穀物と引き換えました。また、外国からも、この穀物を求めてやって来ました。それで、エジプト中の農地はファラオのものとなり、諸国の財宝もエジプトに集まったことが書かれています)、また、氾濫の多い地の農民に、建造物を造る仕事を与えて、生活に困らないようにしていた、というのです。エジプト人が労働したのであって、エジプトに奴隷はいなかった。そして、建造物を造る人たちは、たらふく食べて、労働はねぎらわれ、苦しみはなかった。ということが、最近の定説となっている、と言っていました。

 

 しかし、聖書には、史実として残されています。そして、イスラエルでは、出エジプトを記念して、現在に至るまで、毎年、過越しの祭りを祝っています。

 

 神は、イスラエルの苦しみを覚えておられます。

 そして、神は、イスラエルに、奴隷の家であったエジプトから救い出してくださった神の栄光を覚え、主を恐れる者であるように、と命じておられるのです。

 

 エジプト人がたとい忘れても、神はアブラハムに、アブラハムの子孫は四百年の間、自分のものでない国で奴隷として苦しめられることを仰せられていましたが、そのお告げを確かに実現されたのです。