今、フジテレビで、平日13時50分から、亡き三浦春馬くん主演の番組「命と向き合うドラマ 僕のいた時間」が再放送されています。
2025年は、霊の覚醒の年で、日本人の三割の人がいのちを選ぶ道へと導かれる、とスピリチュアル界隈では言われています。
いのちを選ぶ道とは、いのちを感謝し、いのちの根源に帰ることを願う魂が選ぶ道です。この世の生き方の延長にあるのではなく、魂に素直になり魂の声に聞くこと、そして、希望のない世界を心配することから、目に見えない神が用意された希望の光、きよさと正義と愛と平和を求め、魂の安らぎを得る道にはいることです。
この目には見えないけれども、真実なものを捉える感覚、そして、自分を偽ることのできない力強い魂の目覚めとともに、引き寄せられる聖なる道です。
世の人にはわかりません。霊が目覚めたいのちある者が捉えることのできる、否定できない真実なのです。
まるで、日本列島に意志が働いているかのように、2025年は、大阪でいのちの事を考え、永遠への思いを寝ざめさせるような霊的な空間である、「大阪万博」が開催されています。
霊界では、伊勢、出雲、富士山から恵みの光が放たれています。空海の張った結界が解かれ、大和魂に封印されていた封印が解かれています。
7月5日には、目に見えないものに呼び集められた人たちが、兵庫県の神縄高原を中心に集合意識が発動しました。
そして、今、命と向き合うドラマとして、「僕にいた時間」のドラマの再放送がされています。
日本列島では、闇の力の縄目が解かれて、光に応答するいのちが生まれているようです。
三浦春馬くんが亡くなった後で、ネットには悲しみの声が溢れていました。ファンでなかった人の心にも何かの空洞ができ、喪失感を味わいました。
三浦春馬くんのファンだったわけでない私にも及びました。
ほかのだれかに同じことが起こったとしても、このような現象になることはなかったことでしょう。
三浦春馬くんの魂に向かって祈りました。三浦春馬くんの死を悼む人たちが、死の先のいのちを知ることができるように、死の先にある希望を知らせてください、と。
信仰につまずいた人、傷ついた人、闇の中にいる人、心のさまよう人が、魂の牧者である主に帰ることができるように、また、生かす御霊による永遠のいのちを得る道を歩むように、また、魂が慰められ、魂が癒され、傷ついた魂が健やかになるように、神の子どもとして生きる新しい人となるようにと、このブログを始める計画を立てましたが、機械に疎く、パソコンがわからない私は手をつけられずにいました。
しかし、三浦春馬くんの死を悼む悲しみの人のうめきに、心が痛む私は、春馬くんは死を選んでいないこと、今も生きていて、終わりの日に、いのちを得るために魂をきよめ整える訓練の中に居ることを伝えなければと思い、何時間もかけてパソコンと格闘しながら、ブログをスタートさせた次第です。
2025年と言う、魂が二極化されるとスピリチュアルな人たちが伝えている年に、「僕のいた時間」が再放送されるとは、何とタイムリーなことでしょうか。
かつて、クリスチャンが書いたブログの中に「三浦春馬くんの死は一粒の麦」と書かれているのを見つけました。
実は、私の思いの中にも、「一粒の麦」の思いがありました。それで、私は、春馬くんの死は、多くの人たちにいのち(永遠のいのち)を得させるためだったと考えています。
神が、三浦春馬くんを、「多くの実を結ぶために死ぬ一粒の麦」として選ばれたのだと思います。
ファンの方の心には届かない言葉かも知れませんが、私には、寿命だったように思います。
事故なのか、病気なのか、死因はどうであれ、三浦春馬くんの死期だったのではないかと思います。
三浦春馬くんは、精一杯生き、真摯にいのちと向き合い、輝く魂だったと思います。
この輝く魂に、神は、一粒の麦の役割をお与えになりました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)
一粒の麦のみことばは、イエスが十字架の死が近づいた時に語られたことばです。
イエスは、「人の子(キリストとして来られた神のひとり子ナザレのイエス)が栄光を受けるその時が来ました。」と言われました。
一粒の麦として死ぬことは、神の栄光を受ける死だったのです。
日本列島にいのちの輝きが現われ、悔い改めの霊と、御救いの喜びの声が満ちますように。魂に平安がありますように。
私は、三浦春馬くんの魂を、生きることを伝え、いのちに思いを向けさせる「いのちの伝道者の魂」だと思っています。
愛のある魂に与えられる役割です。三浦春馬くんの魂は、闇に勝利して、神の国の働きを担ったのでしょう。