「愛する兄弟たち。あなたがたはそのこと(すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下ること)を知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主があなた(悪魔)を戒めてくださるように。』と言いました。」〔ユダ9〕ミカエルは、悪魔にさえ、自分の怒りにまかせてさばくことをしませんでした。御使いは、神の御主権にへりくだっています。天に属する者は、神にゆだねます。善悪を決めるのは、神です。神にゆだねましょう)
ですから、すべての汚れやあふれる悪(罪)を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたの魂を救うことができます。(神のみことばは、生かすためです。悪魔の言葉は、死に至らせるためです)
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(聞くだけならば、人生を変えることはできません。神は、聞き従うことを命じておられるのです。それは、この滅びの世から救い出して天の御国にはいる者に造り変えるためです)
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
ところが、完全な律法(天の御国に入らせるための神のことば)、すなわち自由の律法(罪から解放し神のみもとに帰らせる真理の御霊の導き)を一心に見つめて離れない人(御霊とともに歩む人)は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。(御霊に聞き従って神の御心の道を選ぶ人になる)こういう人は、その行ない(信仰の歩み)によって(神に)祝福されます。」(ヤコブ1:19-25)
聖書は、みことばを聞いていても、聞くだけで行なわない人(神のことばに従わず、この世の生き方のまま生き続ける人)のことを、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようだ、と言っています。
人は、鏡に映った自分の顔を見て、そこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまいます。
自分の顔を知っているようで、実は、周囲の人の方がよく知っています。
顔に何かが付いていても、鏡を見るまでは、本人である自分は気づきません。ほかの人に教えられて気づくことが多いのです。
表情や癖も、本人以上に周囲の人々に知られています。鏡に映る自分の顔が、普段どおりの顔とは言えません。
写真を見て、客観的に自分を知る、ということもあります。本人でありながら、意外と知らないものです。
後ろ姿も、横顔も、本人よりも、他人が知っています。鏡はその一瞬を切り取りますが、日常の自分を映し出すわけではありません。
また、鏡を見て、そこから立ち去ると、その途端に、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまいます。
肉体の自分は、鏡を見て、肉体の自分を見ています。そして、鏡から離れると、外側から、自分の肉体を見ることはできません。
完全な自由の律法を一心に見つめる人は、肉体の自分を見ているのではありません。死んで行く肉体とは別に、肉体の中には魂があります。
鏡は、肉体を映し出しますが、魂は映し出しません。魂は、目に見えないものだからです。
魂を映し出すものはあるでしょうか。それは、神のみことばです。
神のみことばに照らし合わせて自分の心を映し出すならば、御霊は、正しい道へ向かうために助けてくださいます。御霊は、みことばを素直に受け入れることができるように助けてくださいます。すると、魂に平安がきます。
真理の御霊は、魂を救うために遣わされているのです。
ヤコブは、行ないのない信仰は死んでいる、と言います。
「魂を離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)
信仰の父アブラハムは、彼のひとり子イサクを祭壇にささげました。そのとき、神は、アブラハムを、その行ないによって義と認められました。
アブラハムの信仰は、神に聞き従うアブラハムの行ないとともに働いたのであり、アブラハムの信仰は神のみことばに従ってなす行ないによって全うされました。神を信じたアブラハムは、神に聞き従ったのです。
完全な律法、すなわち、天の御国にはいるために与えられる「真理の御霊」は、私たちの信仰を映し出す鏡のようです。神に従うのも、従わないのも、その人の自由です。人には、自由意思が与えられているからです。
しかし、真理の御霊に尋ねるならば、御霊は、その人のうちにある不従順や不信仰や背きの罪を見せてくれます。魂が感じ取ります。
御霊は、魂を救う神格者です。
もし、人が、罪と滅びから解放されることと聖くなることと真理の光を慕い求めるならば、御霊は、悔い改めの霊でおおい、罪から離れることを助けてくださいます。
自由の律法(罪の縄目から解放し、自由の子としてくださる御霊の導き)を一心に見つめて離れない人は、みことばをすぐに忘れる聞き手にはならないで、御霊に助けを求めつつ御霊の御思いに聞き従う人になります。
こういう人は、その行ないによって、神に祝福されます。
イエスは、弟子たちに、いのちを得る道を歩む人の模範を示されました。
目に見えるイエスが地上におられない今は、神が、もうひとりの助け主を遣わしておられます。真理の御霊です。イエスのことばを思い起こさせ、真理を教えるキリストの御霊です。
御霊は、人の子の霊によって、私たちを新しい人に造り変えて、神の子どもを創造されます。私たちひとり一人のうちに住んで、永遠のいのちを得させるために正しい道へと導かれます。
キリストは、聖霊と火とのバプテスマを授ける、魂の救い主です。
魂を救うために、御霊を授けてくださいます。
「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われ(キリストの再臨)のときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。」(ペテロ第一1:7-9)
魂の鏡を見ていますか。
一心に見つめて離れない人は、神に祝福されます。