ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ローマ書五章 アダムの違反によって死がはいり、キリストの死によっていのちを得る

 

 「私たちがまだ弱かったとき(不義の中にいたとき)、キリストは定められた時に、(神は、定めの時が来たので、御自分のひとり子を女から生まれる「人の子」として遣わされ、人の子は)不敬虔な者(不信者)のために死んでくださいました。

 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、(罪を悟らず神に不従順で、罪を悔いることもなく、神から遠く離れてさまよっていた私たち罪人を救うために)キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する御自身の(無条件の)愛を明らかにしておられます。

 ですから、今すでにキリストの(罪の贖いの)血によって(罪が赦され、神に)義と認められた私たちが、彼(神の御子イエス・キリストの死)によって神の怒り(裁き)から救われるのは、なおさらのことです。

 もし(神に逆らい神の)敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら(事実、人の子となられた御子の流された贖いの血は私たちの罪を取り除き、キリストの贖いの血の恵みを信仰によって受け取った私たちは、神に義とされて永遠のいのちを得て神のみもとに帰るのです)、(イエス・キリストの身代わりの死によって、神と)和解させられた私たちが、彼(十字架で血を流し、死から甦られた救い主イエス・キリスト)の(復活の)いのちによって(ともに死から甦り)救いにあずかるのは、なおさらのことです。

 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)

 

 生けるまことの神から離れて、死と滅びに向かっていた私たちの魂は、キリストの贖いの血によって罪が赦されました。信仰によってイエスの血の力を信じた私たちは、神の赦しと愛を知り、父の愛に立ち返り罪を悔い改めて、神の子どもに造り変えられるのです。

 

 神は、信じる私たちに、救いのしるしとして、真理の御霊を遣わしてくださいました。イエス・キリストの父、すなわち、父なる神を「アバ、父。」と呼ぶ御霊は、私たちを神の子どもとするために、新しい創造を施してくださいます。

 御霊を受けた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神を大いに喜ぶ者とされました。

 

 神から遠く離れて魂には安らぎがなく、希望もなく死んで行くだけの私たちは、御霊の助けによって、救いの喜びを味わい、イエス・キリストを信じ、主キリストを愛する者とされました。

 これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。

 

 アダムの背きの罪によって、世界に死がはいりました。

 ひとりの人アダムによって罪がはいり、罪によって罪の報酬である死がはいり、こうして死が全世界に広がりました。

 

 しかし、神の定めの時に、キリストは遣わされました。父なる神に聞き従う従順な「人の子」です。キリストは、違反者のアダムとは異なり、従順なしもべでした。

 

 ひとりの人アダムの違反によって多くの人が死に、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによって与えられる賜物(聖霊、すなわち、生かす真理の御霊)は、多くの人々にいのちをもたらすのです。

 

 裁きの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認めらます。

 アダムの罪は人を死なせ、キリストの恵みは人を生かすのです。

 

 ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされます。

 アダムの命は死に向かい、キリストの与えるいのちは永遠のいのちを得させます。

 

 アダムの命は、生まれつきの人の命です。

 キリストのいのちは、信仰によって受ける御霊のいのちです。

 

 人は、生まれつきのまま、神と和解しないまま生きて、死と死後に裁きが定められた肉なる人として死んで行く人生を歩みます。

 しかし、救い主イエス・キリストを信じ父なる神と和解して罪を悔い改め、生かす御霊を受けて新しく生まれ変わり、信仰と希望と愛を得て、神の怒りに会わず永遠のいのちを得させられる神の子どもとされる人生を選ぶことができます。

 

 信仰によって(神に)義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 死と死後の裁きを恐れることはありません。罪は赦されているからです。魂の救いを得ているからです。

 

 神との和解、神との平和、神の愛、永遠のいのちと希望は、救い主イエス・キリストの信仰によって与えられた恵みです。

 この恵みに、信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

 

 生まれつきのままの人が神の栄光を望むことがあるでしょうか。神の存在さえわからないではありませんか。存在すら理解できず現実のお方とは思えない目に見えない神に栄光を見ることができるでしょうか。彼らにとって、そのような栄光は幻想であり、人の造り出した実質のないもの、やがて消え去る陽炎(かげろう)のように当てがなくむなしいものではありませんか。

 

 しかし、信じる私たちにとっては、現実です。目に見えるこの世の世界よりも、永遠に変わることのない確かなものです。

 

 それゆえ、キリスト信仰によって襲って来る患難さえも喜びます。

 「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3,4)

 

 苦難は神を求めさせ、神の御手の下にへりくだるしもべの忍耐をかたち造ります。そして、神の御霊が新しく創造される忍耐は、神の子どもにふさわしい品性をかたち造ります。神の子どもとして養育されているのです。

 練られた品性は、神がともにいてくださるという揺るぎのない信仰を生み、真実な神に希望を持つのです。

 

 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に(常に)注がれているからです。」(ローマ5:5)

 

 御霊を受けていない人は、状況によって神への信頼は揺れ動きます。自分の信仰によっては、神がわからないからです。神を信じていても、神を知らない者のように不信仰の風に振り回されてしまいます。

 

 御霊を受けた人は、多くの苦難を伴いますが、その苦難によって神を信頼することを学び、神がともにおられることを体験します。神を体験する彼らのうちにある希望の光をだれも消すことはできません。

 彼らは、神に愛されていること、神がともにいてくださる方であることを知る人たちです。

 

 人は、アダムの違反によって罪がはいり、死に定められた者となりました。神から離れ、神のことばに背を向け、真理の光に出会わないまま、魂をさまよわせたまま生きますか。

 

 それとも、救い主イエス・キリストを信じ、神に不従順で不信仰であった罪を悔い改めて、神と和解して、いのちの根源であられる私たちの創造主、霊の父のみもとに帰る安らぎと魂の救いとを得ますか。

 

 罪(アダムの背き)が死(死と死後の裁きと滅び)によって私たちの魂を支配するに至ったように、恵み(キリストの血の贖い)もまた義(神との和解と真理の御霊)によって支配し、私たちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるに至ります。

 

 神の招きに応じるか、応じないかは、一人一人の自由意思にまかされています。

 2025年は、自分自身の霊で自分の魂の歩む道を決めるときのようです。

 

 蛇の言葉に聞き従って死の道を行くか、キリストのことばに聞き従っていのちの道を行くか、二つに一つです。

 

 永遠のいのちを得させるために、地上に遣わされたキリストは言われます。

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこ(世の人々の道)からはいって行く者が多いのです。

 いのちに至る門(真理の御霊が導くいのちの道への入り口)は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(素直な心と信仰によらなければ見出すことはできません)

 偽預言者たち(神から出ていない偽りの真理の教え、偽りの救いの道)には気をつけなさい。」(マタイ7:13-15)