ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

曲がった時代から救われなさい

 

 イスラエルの王ダビデは、預言者でしたから、神がダビデの子孫のひとりをダビデの王位に着かせると誓って言われたことを知っていました。

 

 ダビデ王は、後のことを予見して、キリストの復活について、「彼(ダビデの王位に着くキリスト)は(死んでも)ハデス(死の国)に捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。(キリストは死から甦る)」と語り、詩篇に書かれています。

 

 詩篇のみことばは、ナザレのイエスにおいて成就しました。

 神は、イエスを甦らせました。

 

 神の御座の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊のバプテスマを授けるキリストの権威を受けられました。

 イエスの弟子たちは、父によってイエスが約束した聖霊のバプテスマを授けられました。聖霊の器とされたイエスの弟子たちは、イエス・キリストを主と告白する者たちに、イエス・キリストの御名によって、聖霊のバプテスマを授けます。イエス・キリストを信じる人たちもまた、この聖霊を受けるのです。

 

 ダビデは天に上ったわけではありません。ダビデは墓に眠ったままです。

 ダビデは、とこしえの王となられる神の御子キリストについて、次のように言っています。

 「主(全能の神、主)は、私の主(ダビデの子孫から現われる神の御子であるキリスト)に言われた。

 わたし(父なる神)があなた(神のひとり子)の敵(悪魔)をあなた(主が遣わされたキリスト)の足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」(使徒34,35)

 

 ナザレのイエスが、ダビデの預言したキリストだったのです。

 しかし、ダビデの子を待ち望み、モーセを信じるユダヤ人たちは、神が、今や主(私たちの主権者)ともキリスト(救い主)ともされたこのイエスを、十字架につけたのです。

 

 キリストの十字架の死は、神の民ユダヤ民族だけのためだったでしょうか。

 キリストの血は、世の罪を取り除くために流されました。イスラエルの外にいる神の子どもたちのためにも死なれたのです。

 

 キリストの血は、神の子羊イエスを信じる人たちにとっては救いですが、信じない人たちにとっては滅びのしるしです。

 世の罪を取り除くために流されたキリストの血も、信仰によって受け取らなければ、信じない人にとっては意味のないものです。ある人にとっては無縁なもの、ある人にとっては忌むもの、ある人にとっては憎むものです。

 

 しかし、それは、目に見える世界でのことです。

 いずれ、すべての人は、肉体を脱いで、魂の状態に戻ります。

 

 キリストの血を信仰によって受けた人たちの魂は、死から甦られたキリストのように、御霊による新しいからだを受け、霊のからだを着ます。

 彼らは、信仰によって、神の子どもとされる特権を受け、また、聖霊のバプテスマによって、神の子どもに造り変えられたからです。

 

 しかし、キリストの血を受け取らなかった魂は、裸のままです。彼らは、神が遣わされたキリストを信じなかったのです。キリストの血を受けていない魂の罪は贖われていません。御霊の新しい創造を受けていません。御霊によって新しく生まれて、神の子どもにふさわしい新しい人に、造り変えられていません。神の国にはいる備えができていないのです。

 

 人々は、聖書の中に、永遠のいのちの奥義が隠されていると思うので、聖書を調べています。しかし、信仰によらなければ、真理を悟ることはできません。真理は文字ではなく、真理の御霊によって教えられるものだからです。

 

 ペテロのメッセージを聞いたユダヤ人たちは、心を刺されて、使徒たちに言いました。

 「兄弟たち。(神の御子イエスを十字架につけて殺してしまった)私たちはどうしたらよいのでしょうか。」(使徒2:37)

 

 イエスは、私たちの罪を贖うために、ご自身の罪のない聖い血を流されました。私たちの救いのために、ご自分のいのちをお与えになったイエスを、私たちは、神を恐れることなく、神のひとり子をののしり、はずかしめ、憎んで処刑したのです。

 

 これは、ユダヤ人だけの問題ではありません。人はみな、自分の罪によって、神の御子を死に追いやったのです。

 

 かつて、私が聖霊のバプテスマを受けた時のことです。

 牧師夫妻に手を置いて祈られているのに、なかなか聖霊を受けることができませんでした。一時間以上も、畳の部屋で正座していました。足を崩したい切実な欲求とともに、聖霊をあきらめかけていた頃のことです。

 

 心の中には疑いが起こって来ます。信仰を調べていました。イエスを信じるという告白は本心だったのだろうか。本当に信じているのだろうか。信じていないから聖霊が下られないのではないだろうか。

 

 足もしびれるし、今日の祈りはここまでにしたい、と思いました。

 

 その時、目をつぶっている私の脳裏に等身大の十字架を背負ったイエスが、よろよろとよろけながら歩いておられるのが見えました。

 イエスを群衆が取り巻いています。群衆は口々にイエスに悪態をついていました。私は、この群衆に憤りを感じて、心の中で叫びました。「イエスは、罪を贖う神の子羊として十字架につけられるのよ!罪人である私たちの罪の身代わりに、神の呪いとなって、罪の呪いを受けてくださるのよ。イエスは、私たちを救うために、死なれたのよ!」

 次の瞬間、私の思考は静止しました。群衆の中に、私自身の姿を見たのです。群衆と同様、私は、全身に力をこめて、目の前を通り過ぎて行くイエスを罵倒し、憎しみと怒りに燃えていました。

 

 足のしびれのことも、今、聖霊のバプテスマを受けるために、牧師夫妻に祈ってもらっていることも、すっかり忘れて、うなだれました。

 「ああ、私がイエス・キリストを十字架につけたのだ。」

 ユダヤ人だけがつけたのではありません。

 

 一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定められている私たちに、永遠のいのちを得させるために、天の栄光を捨てて地に下って来られた神のひとり子を、すべての民族、すべての国、あらゆる人々が、罪に定めて、殺したのでした。

 

 私は、身をよじって悔い改めました。

 「主よ。私が神の御子イエスを十字架につけました。私の罪がキリストを十字架へと追いやったのです。私の罪をお赦しください。」

 顔を上げることができません。ただただ、神に謝罪しました。

 すると、神は、すぐに応答してくださいました。

 私の口の中でくちびるが小刻みに震えるのを感じたと思ったら、音が異言となって私の口から出て来たのでした。

 

 牧師夫妻は、「異言です。聖霊を受けましたよ。」と言われました。

 神は、私の悔い改めの祈りに応えるかのように、異言の賜物を授けてくださいました。

 

 神の御子イエスを十字架につけて殺してしまった私たちはどうしたらよいのでしょうか、とうろたえる人々に、ペテロは答えました。

 

 「『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 なぜなら、この約束(イエス・キリストを信じる者には、キリストの名によって、もうひとりの助け主、真理の御霊が授けられる)は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主(天地万物を造られた創造主であり、被造物を裁く裁き主であられる全能の主)がお召しになる人々に与えられているからです。(ユダヤ人も異邦人もありません。神の御子イエス・キリストを信じる人は、その信仰によって、神の家族です。神は、キリストのために、御霊による新しい創造の七つの御霊の教会を完成して、キリストにお与えになるのです)』

 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、(イエスが神に遣わされた救い主、神の御子キリストである)あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。』と言って彼ら(救われるためにはどうしたらよいかと、自分たちの罪を知って救いを求める人々)に勧めた。

 そこで、彼のことば(福音のことば)を受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが(イエスの)弟子に加えられた。」(使徒2:38-42)

 

 真理を捻じ曲げる曲がった時代、光よりも闇を愛する人々が世の中の中心となる時代にあって、滅びに向かう世から、救い出されなさい。

 真理を求める人々に、神は素直で柔らかな心を与え、悔い改めの霊と信仰を注ぎ、神の用意された救いの道へと導いてくださいます。

 

 きよくなることを求める心は幸いです。聖なる御霊を迎える備えがされるからです。

 光を求める心は幸いです。光を見る目が与えられるからです。

 神のことばに飢え渇く心は幸いです。真理の御霊が来てくださるからです。