ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

私たちが生きているは追放されたエデンの園に帰るため

 

 最初の人アダムは、エデンの園にいたとき、蛇の言葉に聞き従って、神のことばから外れました。

 

 ヨハネの福音書の1章には、神のひとり子イエスは、神のことばであったことが明記されています。

 

 「初めに、言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。

 この言(ことば)は、初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」(ヨハネ1:1-5)

 

 最初から神とともにおられた神のひとり子は、神の発せられる言(ことば)であり、神格を持つ神の御子でした。

 すべての被造物は、神の言(ことば)によってできました。この言(ことば)は、人の言葉のようなものではありません。神の言(ことば)は、命のある神のひとり子であり、神格者です。

 

 人間の標準で神を捉えようとしても、それは適いません。人の思考では理解できません。神の言(ことば)は、神の御子であり、命ある神格者なのです。

 

 人は、力ある人が語った言葉を、その人自身として恐れることがあっても、その言葉に命があると考えるでしょうか。しかし、神の言(ことば)である神の御子イエス・キリストの命は、人に永遠のいのちを得させる力があるのです。

 

 この命が、「人の子」となって、地上に遣わされました。地上には、蛇の言葉に聞き従って、獣の道を行く、エデンの園から追放された罪人たちが、生まれては死んで行き、また、生まれては死んでいます。

 

 神のことばから外れた人は、罪を負いました。罪の報酬は死です。

 「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル9:27)

 お母さんの胎から生まれた人は、例外なく、一度死ぬことが定められています。そして、死後には、裁き主の前で創造主に裁かれることが定められています。

 

 創造主の目的どおりに生きたかどうかを調べられて、み旨にかなわないものは、神のみもとに帰ることができません。

 

 神は、蛇の言葉に聞き従って神の言(ことば)から外れた人が、エデンの園にある「いのちの木の実」を食べないように、いのちの木への道を塞いでしまわれました。

 獣の霊に汚された人が、罪あるままで、いのちの木の実を食べて永遠に生きることがないようにと、神が、いのちの木への道を守られたからです。

 

 エデンの園から追放されたアダムとエバの子は、地上で何をしたでしょうか。

 兄カインは弟アベルの正しいのを妬んで、弟を殺しました。

 アダムの最初の子は、殺人者となりました。カインの心は、神を恐れない獣の霊とともにあったのです。カインは、蛇の言葉を選ぶ者でした。

 

 アダムは、百三十歳の時、神がアダムをかたち造られたとおりのセツを生みました。

 神は、セツの十代目の子孫にノアを生みました。

 

 ノアの時代になると、人類は暴虐に満ちた悪いものとなっていました。

 世は、神を恐れない獣の霊に支配されていたのです。神は、世を大水で滅ぼすことを定められました。

 

 悪いものとなった世にあって、ノアは、神を恐れる正しい人でした。ノアとノアの家族は、神のことばに聞き従って、神が水で滅ぼしてしまわれる世から救い出されるために、神が命じられた寸法どおりの箱舟を造りました。

 

 神は、ノアに語られたとおり、雨を四十日四十夜降らせて、すべての被造物を大水によって押し流し、悪い世を一掃されました。

 ノアとノアの家族は箱舟に乗って、洪水から救い出されました。これは、神の御子イエス・キリストと神を信じて、罪を悔い改める水のバプテスマのひな型です。

 

 大水で洗い流されたからといって、人はきよめられるものではありません。

 ノアの息子ハムの子孫に、神に反逆する二ムロデが起こりました。二ムロデは、地上で最初の権力者です。

 エデンの園から追放された罪人は、水をくぐっても、獣の霊の支配から解放されることはありませんでした。

 

 ノアは、息子のセムのうちに神を恐れる真実な信仰を見て、大水から救い出してくださった全能の神、主のことを、「セムの神」と呼びました。

 

 神は、セムの子孫のアブラハムと契約を結び、アブラハムの子孫から、人類を救う救世主を起こすことを約束されました。

 

 神は、アブラハムの子イサクに、ヤコブを生み、ヤコブと契約を結ばれました。ヤコブは、神と人と戦って勝利した「イスラエル」の名前をいただき、「イスラエル」と呼ばれました。ヤコブは、信仰の勝利者です。アブラハムの契約は、ヤコブに受け継がれました。

 ヤコブの十二人の息子は、十二部族の族長となりました。十二部族からなるユダヤ民族は、アブラハムの契約を相続する、アブラハムの子孫イスラエルです。

 

 神は、神の言(ことば)の命ある神のひとり子に、肉体を造って、イスラエルに遣わされました。

 イスラエルは、神が選ばれた神の祭司の国民です。神は、祭司の民ユダヤ人の手によって、人の子となられた神の御子イエスの血を流し、罪の贖いのきよい血として、受けられました。

 

 アダムは、神のことばから外れ、蛇の言葉に聞き従い、獣の霊を受けて、エデンの園から追放されました。

 神の言(ことば)は、人の子となられて、エデンの園から追放された罪人の罪を贖う贖いの血を流されました。

 

 人の子の血は、罪人の罪を贖います。罪が贖われた人に、神は、罪を認められません。人の子の血を受ける者は、神の言(ことば)の命(いのち)を受けたのです。すなわち、神のひとり子のことばに聞き従って人の子イエス・キリストの血を受けた人は、蛇の言葉に聞き従って受けた獣の霊から解放されて、人の子の霊を受けるのです。

 

 神は、キリストの血に、赦しといのちをご覧になっておられます。

 キリストの血は、罪を取り除いて神との断絶の壁を打ち破り、神と人との和解を成し遂げます。

 

 神は、神の子羊イエス・キリストの血を、神との和解のしるしとされるのです。人が罪を言い表わすならば、神は罪を赦してくださいます。

 

 罪が赦された人から、獣の霊が去ると、人の子の霊がやって来られます。

 人の子の霊は、天から来られたキリストの霊であり、天に属するものです。

 獣の霊は、天から追放された悪魔の霊であり、地に属するものです。

 

 罪の贖いの血を流されたキリストの、きよい血は、裁きを過ぎ越すしるしです。

 キリストの血を受けた人は、獣の霊の死の縄目から解放されて、人の子の霊のいのちを得ます。

 

 キリストの血のしるしがあることを明確し、また、証言してくださるのは、イエス・キリストの御名によって授けられる御霊です。

 

 聖霊に導かれたペテロは、異邦人のコルネリオに招かれて、コルネリオの家に集まった人々にキリストの福音を語っていると、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになるのを目撃しました。

 

 割礼のない異邦人のコルネリオたちは、聞いたみことばを心の中で信じると、水のバプテスマを受けていないのに、聖霊のバプテスマを受けたのです。

 

 神は、キリストの血の恵みを受けるにふさわしい人として、コルネリオたちの信仰を受け入れ、聖霊をお授けになられたのです。

 

 御霊を受け、人の子の霊とともにいる人は、御霊によって新しい創造を受けて、神の子どもにふさわしく造り変えられます。

 

 キリストは、御霊の創造を受けた人を、死から甦らせて、永遠のいのちと復活の新しいからだを得させて、キリストがイスラエルの王となられる新しい神代の千年王国に招かれます。

 

 千年王国は、ユダヤ人たちが待ち望んでいたエデンの園の回復です。

 キリストの王座がある神の都には、いのちの木があります。

 

 アダムが追放されて、道が塞がれていたいのちの木が、千年王国の都の中にあり、千年王国に招かれた者で、いのちの書に名前の記された人は、都にはいっていのちの木の実を食べることができます。

 

 神が遣わされた神の御子、イエス・キリストを信じること。彼は、アダムが背いた神のことばだからです。人は、キリストにつくことで、神のことばに帰るのです。

 キリストが流された罪の贖いの血を感謝して受けること。彼の血は、神との和解のしるしだからです。

 神と和解した者は、エデンの園(回復されたエデンの園、すなわち、千年王国)に帰る道へと導かれます。その助けをしてくださるのが、真理の御霊です。

 真理の御霊を受けた者は、火のバプテスマによって、きよめられ、神の子どもに造り変えられます。

 

 私たちが、今、生きているのは、神に罪を赦されて、追放された魂の故郷であるエデンの園に帰り、神の赦しと愛と恵みによって、回復されたエデンの園(千年王国)にあるいのちの木の実を食べて、永遠のいのちを得るためなのです。

 

 神は、ひとりひとりに人の子の霊を得させて、天の御国にはいる新しい人に造り変えたいのです。

 人の人生は、それに応じる信仰を得るための道のりです。