ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悔い改めは敗北ではない

 

 自分の失敗や落ち度を認め、謝罪することは、自分の立場を卑しくする事、面目の立たない事、恥ずかしい事に感じる人もいるでしょう。

 

 謝罪しなければ、自分に落ち度があった事が明るみに出る事はないのです。自分の罪を人目にさらすことはないのです。

 しかし、確実にその魂は異議を唱えます。不服を申し立てます。魂は知っているのです。明るみに出なければ罪ではないのか。隠された事は無い事とみなされるのか。

 

 魂は、生きる事を望んでいます。罪が死をもたらす事を知っているのです。罪を抱えた魂は、罪からの解放、永遠の死から救われることを切に求めています。

 

 しかし、人には、思考があります。思考によって生きていると、魂の声が届かなくなります。まるで、良心である魂の周りに、いばらとおどろの思考が取り巻いているようです。いばらとおどろは、この世のものです。処世術を教えてくれます。思考に頼った方が、無難な人生を送ることができるのではないですか。

 

 人は一度死にます。これは、生まれた時からの定めです。良心に従って生きた人も、罪を犯した人も、すべての人が行き着く世を去る道です。

 

 死が定まっているのならば、自分の生きたいように生きた方が良いのではないか。

 しかし、魂は、死を望んではいません。死なないいのち、すなわち、永遠のいのちを得るために、生を受けたからです。

 

 魂は、いつも語りかけています。危険を知らせ、悪を離れるように。人の思考は、目に見えない霊の事を悟ることができません。しかし、魂は、肉体に入ってこの世に現れる以前に、光の中に存在していた記憶を持っているのです。

 

 人は、死を恐れます。死んだら何もない、と思っている人でさえ、死期が近づくと不安になります。自分の人生は、これでよかったのか、と振り返ります。

 心残りはありますか。平安はありますか。

 

 あるホスピスで働く医師の著書には、平安のうちに死を迎える人の共通点が書かれています。

 それは、お金持ちではありません。また、人生の成功者と言われる地位や名声を得た人ではありません。多くの人に囲まれている人でもありません。

 

 家族との関係に平安を持つ人です。大切な人との間にわだかまりがなく、赦しを請うような心残りな事も、また、憎まれる辛さや憎んでいる不穏な心もない人です。

 争い、憎しみ、赦せない心が、人から平安を奪っています。死を目前に、自分の人生は幸せだった。ありがとう。と思えるのは、争いのない平安な心です。

 

 平安な心は、魂の安らぎです。平安な魂は、平安な所へと帰っていきます。しかし、不安と恐れを抱えた魂は、解決のないまま、恐れの所へ入っていきます。

 

 魂にとっては、プライドも保身も意味のないことです。あるのは、永遠に生きるいのちの道に辿り着くことです。永遠のいのちを得るためならば、何でもします。

 

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:44-46)

 

 天の御国は、持ち物を全部売り払ってでも買う価値のあるものなのです。永遠のいのちは、天の御国にはいる御霊のいのちです。真理の御霊が与えるいのちです。しかも、それは神のひとり子イエス・キリストが、ただで与えてくれるものなのです。

 

 終わりの時に、神は、天の御国に入る者を集められます。

 畑はこの世界のことで、良い種は御国の子どもたち、毒麦とは悪魔が蒔いた種の悪い者の子どもたちのことです。収穫とはこの世の終わりのことです。その刈り手は神の御子キリストが遣わされる御使いです。

 毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

 

 御使いたちは、つまずきを与える者や不法を行なう者たち、すなわち、生けるまことの神にへりくだらない者たちをみな、救いを待ち望む宗教の中から取り集めます。御霊によって新しく造り変えられていない肉の性質のままの魂を、火の燃える炉に投げ込みます。

 

 彼らは、神が用意された御救いの手順であるキリストの門からはいらず、強盗のようにほかの所を乗り越えて来た盗人です。彼らは、そこで泣いて歯ぎしりするのです。

 キリストの門とは、罪を悔い改めて罪が赦され、キリストの復活のいのちである聖霊【真理の御霊】、すなわち、生かす御霊によって生かされる魂のはいる門です。

 

 「そのとき、正しい者たちは、天の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。(真理を聞く耳があり、真理を悟って悔い改める者、へりくだって神と和解する純真な魂は、正しい道を歩んで、天の御国にはいりなさい)」(マタイ13:43)

 

 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)

 

 御子イエス・キリストの血は、すべての罪から私たちをきよめる、完全な贖いの血です。

 

 神は約束しておられます。

 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。

 たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

 

 悪魔の罪は、黒色でしょう。漆黒の闇です。

 しかし、人の罪は赤いのです。それは、人を傷つけ痛めつけ、偽証して闇に葬る、いのちを奪う罪であり、また、自分の魂を死に追いやる罪です。いのちは血です。血にいのちがあるからです。人の罪は、血を流す罪です。

 

 最初の人アダムの子が犯した罪は、兄が弟を殺した、殺人の罪でした。

 神は、兄のカインに仰せられました。

 「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血(いのち)が、その土地からわたし(神)に叫んでいる。

 今や、あなたはその土地に呪われている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。」(創世記4:10,11)

 

 私たちの手は血まみれです。私たちの罪は、自分のいのちだけではなく、土地をも汚し、神の呪いを受けています。

 

 しかし、神は、神の子羊イエスの血を流して、罪の呪いから解放してくださいました。神は、血まみれの私たちを、子羊イエスの血で洗いきよめて、雪のように白くしてくださったのです。

 そして、キリストの血によって白くされた私たちを、罪が贖われて罪赦された義人としてくださいます。

 

 悔い改めは、癒しであり、解放です。

 神に罪を言い表わすことは、自分の罪を認めることであり、罪を贖ってくださった神の御子イエスの血を感謝しつつ、罪の赦しを得て魂の平安を得ることです。キリストの血は、私たちの罪を贖い、神との和解を実現しました。

 

 罪の赦しを得る者は、神と隔てていた罪が取り除かれることで、神のあわれみを受け、恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく者とされたのです。

 

 罪の縄目も、暗い心も、不安や恐れも、追って来ません。私たちは、神のものとされたのです。

 

 「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)

 

 罪を隠して罪が無い者のように振る舞う者ではなく、へりくだって罪を認め罪を言い表わして、魂に平安を得る者となりましょう。

 

 悔い改めは敗北ではありません。

 悔い改めは、神に近づく道です。

 悔い改めた魂は、心が解放されます。死後の恐れを持つことがありません。