ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

充電期間

 

 熱心なキリスト者たちは、毎週日曜日に教会へ行って礼拝します。祈り会に出席したり、聖書研究会に出席する人もおられることでしょう。

 キリスト教会の行事とともに、キリスト者たちのスケジュールは組まれていきます。

 

 イエスは、大変忙しい人でした。しかし、神の御前で休息する人でした。

 「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)

 

 イエスは、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊(悪霊)を追い出す権威をお与えになりました。

 こうして十二人は出て行き、神に立ち返らせるために、不信の罪を悔改める「悔い改め」を説き広め、悪霊を追い出し、大勢の病人にオリーブ油を塗って癒しました。

 

 「さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、(民衆に)教えたことを残らずイエスに報告した。

 そこでイエスは彼らに、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。』と言われた。

 人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。

 そこで、彼ら(十二使徒)は、舟に乗って、自分たちで寂しい所へ行った。」(マルコ6:30-32)

 

 イエスは、休息することの必要性をよくご存知でした。心は燃えていても、肉体は弱いものであることを知っておられたのです。

 

 神が造られた肉体に入られた神のひとり子は、永遠の昔からおられる「霊なる存在」でした。霊なる存在の御子が、死と滅びが定まっている肉体にはいられたのです。それは、今まで体験したことのない苦痛です。全身にきついコルセットを着けて、始終締め付けられているようです。神経は麻痺し、意識はもうろうとします。解放されたくても、死ぬまでこの状態から自由になることはできません。

 

 霊の世界では、父なる神も御子も聖霊も、御使いたちもみな、肉体をもっていません。時間や空間の拘束のない世界なのです。お互いにテレパシーで意思の疎通ができ、瞬間移動ができます。時間の経過とともに朽ちて行く肉体を持たない世界なのです。

 

 しかし、肉体で生きる世界では、互いに言葉で話して意思疎通をしても、通じ合うことは難しく誤解が生じます。言語が異なればなおさらです。

 行きたい所へ行くためには時間と労力がかかります。

 また、肉体は、病気や怪我などで故障します。不具合によって、人の計画はスムーズに実現できません。

 

 霊の世界では、神と一つであり、一つのいのちで生きています。すべての存在は、神の細胞のようであり、自己主張せず、秩序は保たれ、調和する光です。

 しかし、肉体の世界では、肉体によって一つ一つ隔てられています。肉体の中に魂がありますが、魂は、一つの一つの肉体に入って個別のもののようです。互いの間に調和はなく孤独です。

 

 愛とは何でしょう。調和とは何でしょう。自分に死んで他者と合わせることですか。肉体には、死がまとわりつきます。死なないと、調和も安息も得られないのですか。

 

 人々は、孤独に耐えながら、あるいは、自分が孤独であるという意識は幻影であると悟り、これが人間なんだと思い込まされて生きています。

 

 イエスはご存知でした。肉体を持つ以前の世界を知っておられるからです。

 父なる神がおられて、御使いたちは一つ心で神を賛美しているのです。一糸乱れぬ調和と愛と平和と平安、栄光の輝きと全き光の世界です。

 

 イエスは、この全き秩序と栄光の輝き、光の世界から来られたのです。神のひとり子としての栄光を捨てて、肉体を持つ人の子イエスの姿で来られました。

 

 神は、御使いたちに、「人の子」として来られた御子に仕えるようにと命じられました。

 「神の御使いはみな、彼(「人の子」として肉なる者の世界に遣わされた神のひとり子、すなわち、神の子羊ナザレのイエス)を拝め。」(へブル1:6)

 

 天地万物を造られた神が、天地にいる御使いに命じられました。

 御使いには、神に仕える者と、神に背を向ける者と、神に敵対する悪魔に仕える者とがいます。神は、神の御使いに命じられました。天で神に仕えていた御使いたちに仰せられたのです。

 

 天から追放された堕天使たちもいます。堕天使たちは、神の御使いとは言えません。神に仕える者とは言えないのです。天から追放されているということは、天と一つではないということなのです。

 

 肉体を持って来られた御子イエス・キリストは、休息の必要をご存知でした。心は燃えていても、肉体は弱いのです。肉体が弱まると、心の炎も弱くなります。どんなに心が燃えていても、肉体が死ねば、心にあった良い計画も実行不可能となってしまいます。

 

 イエスは、ひとり寂しい所へ行って、父との時間を持たれました。祈りの時間です。イエスにとって、祈りは重荷ではありません。霊を生かす糧であり、なくてはならないものでした。イエスは、父と一つでした。父との交わりがイエスご自身だったのです。休息は、必然です。

 休息は、肉体を持つ者の力の源です。イエスは、騒がしい場所を好まれません。イエスは、ひとり寂しい所へ行って、父なる神の御前で安息されたのです。

 

 そして、イエスは、主の働きを成し終えた弟子たちにも、弟子たちだけで、寂しい所へ行って、しばらく休むようにと言われたのです。

 

 寂しい所です。ほかの人々のいない、ゆっくりと休める場所です。これは、キリスト者にとって、密室の祈りをさします。

 

 「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父(天の神)に祈りなさい。」(マタイ6:6)

 

 兄弟姉妹との祈りも大切です。教会の祈りも大切です。しかし、密室の祈りをして自分自身の魂に休息を与えていないと、かたちだけの空っぽな祈り手となってしまいます。

 

 神は、これからの信仰の勝利者としての歩みを全うするために、今は、充電期間だと示してくださいました。

 熱心であったはずなのに、信仰の電池切れのような、真理の光がぼんやりとする聖徒たちを休ませて、神の御霊によって充電してくださいます。

 

 まず、自分が愛されていることを知らないで、どうして他者に神の愛を流すことができましょうか。自分が信仰の喜びに満たされていないのに、どうしていのちの主の恵みを教えることができましょうか。自分が赦される平安を知らないのに、どうして神との和解を知らせることができましょうか。

 

 世はせわしなく変化しています。そして、神に反逆する霊、神に敵対する霊がますます力を帯びています。

 

 神は、信仰の喜びに満たされていない者、信仰に疲れている者、信仰に迷いのある弱った者を、捨て駒のように便利使いする横暴な方ではありません。

 

 肉体の中にはいられた私たちの救い主、主イエス・キリストは、ひとりひとりの状態をご存知です。肉体の限界、肉の弱さを知っておられます。

 イエス・キリストは、心優しく、へりくだっておられます。弱っている人を休ませ、魂に安らぎをお与えになる、まことの救い主です。イエスは、まことの羊飼いです。

 

 「主(イエス・キリスト)は羊飼いのように、その群れを飼い(羊たちを飼い)、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40:11)

 

 イエスは、キリスト教会の主であり、群れを優しく導く、良い羊飼いです。

 牧師も伝道師も宣教師も奉仕者も、イエス・キリストの御手の中にあります。良い羊飼いの御手の中に守られているのです。イエスは休息を蔑まれません。かえって、疲れた人、重荷を負っている人に、休息を命じられる、愛に溢れた優しい主です。

 

 イザヤは、愛に満ちた優しい羊飼い、魂に安らぎを与えるイエスについて、預言しています。

 「彼ら(イエスに飼われる羊たち)は飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。

 彼らをあわれむ者(まことの羊飼いイエス・キリストの御霊)が彼ら(羊飼いイエスに飼われている羊たち、すなわち、キリスト者たち)を導き、水の湧く所(魂を潤す憩いの水のほとり、聖なる道)に連れて行くからだ。」(イザヤ49:10)

 

 神が用意してくださった整えの期間、充電の期間、神の御霊と十分に交わりましょう。寂しい所、ひとりで神の御前に出て、心にあるままを打ち明け、休息を得ましょう。

 

 一人一人に遣わしておられる御使いにも新しい力をお与えになり、神は、充電してこれからの時代に備えられた人たちに、神の御使いたちを仕えさせられます。