ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ローマ書九章 イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない

 

 「アブラハムから出たからといって、すべてが(神の契約のアブラハムの)子どもなのではなく、『(妻サラのひとり子)イサクから出る者があなたの子孫(アブラハムの子孫)と呼ばれる。』のだからです。

 すなわち、(アブラハムから生まれた)肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、(神の)約束の子どもが(アブラハムの)子孫とみなされるのです。

 約束のみことばはこうです。『私(神の使い)は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。』

 このことだけでなく、私たち(ユダヤ人)の先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。

 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、召してくださる方(神)によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女(リベカ)に告げられたのです。

 『わたし(主)は(弟の)ヤコブを愛し、(兄の)エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。」(ローマ9:7-14)

 

 神は、イサクが生まれる前から、アブラハムの妻サラから生まれる男の子が、アブラハムの跡取りとなる、といっておられました。

 妻サラは閉経していましたが、九十歳でアブラハムにイサクを産みました。

 

 イサクの妻リベカは不妊の女でしたが、イサクが神に祈ると、双子の男の子を宿しました。そして、神は、子どもが生まれる前に、跡取りとして弟(ヤコブ)を選んでいることをリベカに告げ、ヤコブが父イサクの相続を受け継ぎました。

 

 肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、神に約束された子どもが、神の契約を受け継ぐ「アブラハムの子孫」とみなされるのです。

 アブラハムには、イサク以外にも子どもがいましたが、神が選ばれたのは、イサクひとりでした。

 イサクには、ふたりの子どもがいましたが、神が選ばれたのは、ヤコブひとりでした。

 

 同様に、イスラエルから出る者がみな、神の契約を持つイスラエルなのではありません。

 

 パウロと同胞のユダヤ人は、世界のあらゆる民族の中から選ばれた神の民イスラエル人です。神の子どもとされることも、神に選ばれた民としての栄光も、神の祭司の国民としての契約も、律法(神のことばである『聖書』)を与えられることも、(生けるまことの神、唯一の全知全能の神の御前で礼拝をささげる聖なる)礼拝も、(世界を救うキリストがユダヤ人から出るという)約束も、アブラハムの契約を相続するアブラハムの子孫であるユダヤ民族のものです。

 聖書に書かれ、イスラエルを神の御力によって救い出したモーセも、預言者たちもユダヤ人です。また、キリストも、人としてはユダヤ人から出られたのです。

 

 しかし、神が遣わされた約束のキリストを拒んだ不信のユダヤ人たちは、神の怒りを買って諸国に散らされました。それでは、神の民イスラエル人に関しての神のみことばが無効になったのでしょうか。

 

 実は、アブラハムから出た者がみな、「アブラハムの子孫」ではないように、イスラエルから出る者がみな、イスラエルではないのです。

 

 神は、人を御心のままに憐れみ、また御心のままにかたくなにされます。

 神はモーセに言われました。「わたし(主)は自分の憐れむ者を憐れみ、自分の慈しむ者を慈しむ。」事は人間の願いや努力によるのではなく、憐れんでくださる神によるのです。

 

 神の律法を持たず、義を追い求めなかった異邦人は、神の御子イエス・キリストにあって、神の義を得ました。キリストの血による罪の赦しと、神の御子イエス・キリストを信じる、信仰による義です。

 しかし、イスラエルは、義の律法を求めながら、すなわち、律法を守ることによる神の義を求めながら、律法を完全に守ることができず、しかも、その律法を完全に守ってユダヤ民族の律法を完成してくださった神の御子イエス・キリストを拒絶して、神の義に到達しませんでした。

 

 ユダヤ人たちは、義の律法を、信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。

 律法の覆いによって思いが暗くなったユダヤ人たちは、つまずきの石につまずいたのです。

 

 イザヤは預言しています。

 「もし万軍の主が、私たち(イスラエル)に子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」(ローマ9:29)

 

 神は、イスラエルに、良い実を残しておられました。(イスラエルの中に、神の御子イエス・キリストを信じるわずかな者たちがいます)

 イスラエルの不信の罪は、イスラエルを腐らせ、天からの火で焼いて罰したソドムとゴモラの町に対するような、天からの火を下すほどの神の怒りを買っています。

 しかし、怒りに満ちた万軍の主は、イスラエルに正しい者を残されました。彼ら(十字架のイエスを主キリストと信じるユダヤ人ビリーバーとメシアニック・ジュー)は、神の御子イエス・キリストに聞き従い、神の御心を喜ばせる、信仰による義人です。

 

 神は、ホセア書で言っておられます。

 「わたし(主)は、わが民でない者(イスラエル人でない者)をわが民(神の民)と呼び、愛さなかった者(無割礼の異邦人)を愛する者(わが民)と呼ぶ。

 『あなたがた(異邦人)は、わたし(主)の民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼ら(神が遣わされたキリストを信じて神に義とされた異邦人)は、生ける神の子どもと呼ばれる。』」(ローマ9:25,26)

 

 神の義は、割礼のしるしでも、律法でもありません。行ないではなく、信仰によるのです。

 神は愛するひとり子を地上に遣わされました。神は、イスラエルに、人を造られた創造主である神の御子イエスを敬愛し、彼に聞き従うことを命じられました。神の御子イエスは、永遠のいのちを得させる救世主なのです。

 

 神の愛は、御子イエスとともにありました。御子を愛する者は、御子を遣わされた全能の神、主を愛する者です。

 律法を持たない異邦人は、自分自身の霊と魂で、生ける神の愛を捉えました。神の御子イエス・キリストの愛に応じたのです。異邦人は、人間の願いや努力によらず、契約にもよらず、ただ、愛と信仰によって生けるまことの神を信じました。彼らは、生ける神を霊によって信じました。

 それで、彼らは、その生きた信仰によって、神の民イスラエルに加えられました。彼らは、御救いが約束されたアブラハムの信仰の子孫に数えられるのです。

 

 イザヤは叫んで言いました。

 「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。(律法によらず、キリストを信じる信仰によって生かす御霊を受ける、残りの民である)」(ローマ9:27)

 

 イザヤの悲しみはどんなものでしょう。イザヤの心は癒されることのない痛みをもって、叫ばずにはいられなかったのです。同胞の多くは、不信の罪で、イスラエルから断ち滅ぼされるのですから。

 

 見栄えのしないナザレのイエスは、イスラエルのつまずきとなりました。

 木につけたナザレのイエスは、神に罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだ、十字架は当然の報いだと思ったのです。

 

 しかし、神の子羊イエスは、イスラエルの背きの罪のために刺し通され、人類の咎のために砕かれたのです。神の子羊イエスへの懲らしめが私たちに罪の贖いと平安をもたらし、神の子羊イエスの打ち傷によって、私たちは癒されました。

 私たちの罪は神に赦され、神に義とされて、神と和解したのです。神と和解した私たちの魂は平安を得ました。

 

 「見よ。わたし(主)は、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。(イエス・キリストを通らなければ、だれも神の子どもになることはできません)

 彼(神の子羊イエス・キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない。(神の御子イエス・キリストを信頼する者は、神の子どもとされ、天の御国にはいります)」(ローマ9:33)

 

 新しいイスラエルは、神の御子イエス・キリストを王とする、とこしえの国です。

 肉のイスラエルの国ではなく、御霊によって永遠のいのちを得させられる、あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる言語の民の中から集められる、生ける神の子どもたちの国です。

 

 御救いは、割礼にはありません。律法にはありません。御救いは、神の御子イエス・キリストにあり、キリストのお与えになる心の割礼【真理の御霊】とともにあるのです。

 

 御霊によって新しく生まれた新しい創造の「新しい人」が「とこしえのイスラエル」すなわち、神の民、神の子どもなのです。