主に聞かれました。
「あなたの願いは何か。」
私は少し考え、御霊にどう答えたらよいのかと祈りつつ、答えました。
「安全に暮らすことと、多くの人が永遠のいのちを得ることです。」
主は言われました。
「わたしの願いも、同じである。」
神は、大地を崩すことも、人々が死ぬことも望んではおられないのです。
多くの自然災害が起こっていますが、人々の思いを覚醒するため、また、土地に染みついた因縁や古いしがらみを取り除くためには、仕方のないことのようです。
しかし、人々が災害に会わなくても、日常生活の中で我に返るならば、必要のないことです。
神の聖霊の器たちが、正しい行ないや聖い思いを心がけて、自分の住んでいる地域を祝福し、祈りによってその土地にキリストの血を注いで、溜まっている罪穢れやその土地に生きていた人々が持っていた強い念や因縁から解放されるように、また、きよめられ祝福されるように執り成し、祈りを積み上げるならば、霊の縛りが解かれて行くでしょう。
神は、人々が安全な中で、素直に神に心を向けることを望んでおられます。
しかし、人間は何かが起こらないと、なかなか神に意識が向かず、神のもとに行こうとしないのが実情です。
なぜ、今、魂の覚醒、霊の目覚めが必要なのか。
それは、永遠のいのちを受ける恵みの時が終わりに近づいているからです。
2025年は、光を求める人と闇の中に留まることを選ぶ人と、二つの大きな流れに分かれる時のようです。
これまでは、いつでも、悔い改める機会がありました。福音に出会い、これが真理だと思ったならば、悔い改めて神に立ち返り、永遠のいのちを得させられる世だったのです。
しかし、これからは違います。
山羊の国が主権を持つ時代が近づいているのです。
あともうしばらくすれば、「異邦人の時」が完成し、ユダヤ人の救いのために残されている「ユダヤ人の時」が始まります。
「異邦人の時」には、ユダヤ人の思いに覆いが掛けられています。それゆえ、ユダヤ人は、福音を聞いても理解できません。
ところが、「ユダヤ人の時」になると、ユダヤ人の覆いは取り除けられます。そして、異邦人の思いに覆いが掛けられます。
今は、割礼の無い異邦人、すなわち、神の契約を持たない異邦人の恵みの時なのです。契約のない民(異邦人)が、契約を持つユダヤ人たちよりも先に、永遠のいのちを得て、神をほめたたえ、神の愛を受けています。
ユダヤ人が救われることは、彼らの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたとおりです。
異邦人が救われることは、神の一方的な恵みです。約束があったわけでもないのに、ユダヤ人の不信の罪によって、神の御救いは異邦人に及びました。
異邦人を救うために、神は、約二千年間、ユダヤ人の心をかたくなにされていました。その中で、神に選ばれ召されたユダヤ人たちは、キリストを信じました。しかし、多くのユダヤ人たちの思いは律法の下に閉じ込められていて、真理のいのちの光は塞がれています。
異邦人の時の完成とともに、異邦人の目は闇に覆われます。光を求める心も失せます。
神の御子イエス・キリストは、神のひとり子の栄光の御姿を捨てて、肉体の中にはいり、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている人類を救うために来られました。
人間はみな、悪魔の策略に抵抗することなく、屠り場に引かれて行く子羊のように、行き先を知らないまま死に向かって歩み、人生を閉じます。
彼らは、自分が罪人であることがわかりません。
罪の報酬として「死」を迎える、という悲しい摂理が理解できません。
神の御子イエスは、自分自身のいのちを差し出し、罪人に代わって、罪の呪いの「死」を体験してくださいました。
「父よ。彼らを赦したまえ。」これが、十字架上で、イエスが血を流しながら、天の父に懇望した祈りです。
人類のすべての罪は、十字架のイエスの上に置かれました。神の怒りは、十字架につけられた神の子羊イエスの上に下されました。
太陽の光は消えました。地は激しく揺れました。神殿の幕は、上から下に真っ二つに裂けました。
神は、神に背く人類への怒りを、十字架のイエスの上に注がれました。
イエスの死は、人類の罪の起訴を取り下げます。神の子羊イエスの血は、世の罪を取り除く罪の贖いの血です。
そして、神は、レビ族のその年の大祭司ひとりしかはいることが許されていなかった至聖所を、すべての人に露にし解放されました。
神は、神のみもとに、イエス・キリストの血を携える(キリストの血の贖いを信じて、イエス・キリストの御名に仕える)者が近づくことができるようにされました。
神の御前で仕えるのは、ユダヤ人のレビ族の祭司職の務めではなくなりました。
神の子羊イエスは、罪の贖いを成し遂げ、また、天と地の和解、すなわち、罪の贖われた人と神との和解の道を設けてくださったのです。
神がひとり子を御使いよりも低い者として世に遣わされたのは、死の定まっている人類の罪の贖いと、罪の赦しのため、また、罪を悔い改めて神と和解した人に、真理の御霊を授けて、心に割礼を施すことでした。
心に割礼を受けるならば、御霊に真理を教えられていのちの道を歩み、永遠のいのちを得させられるからです。
「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所(天)にはいることができるのです。(すなわち、ユダヤ人のレビ族の祭司ではないのに、神の御前に出ることが許されています)
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、(御霊を受け心に割礼を受けた)私たちのためにこの新しい生ける道(永遠のいのちを得させられるいのちの歩み)を設けてくださったのです。
また、私たち(御霊の器)には、神の家をつかさどる、この偉大な祭司(天のまことの聖所で仕える、とこしえの大祭司イエス・キリスト)があります。(死から甦られた復活のからだのキリスト・イエスは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。そして、キリストはいつも生きていて、私たちのために、執り成しをしておられるのです)」(へブル10:19-21)
天の聖所で仕えておられるとこしえの祭司イエス・キリストに覚えられている者に、神との隔たりはありません。それゆえ、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。
神は、私たちが神の愛を知り、イエス・キリストとともにある信仰と希望をいただいて、喜びと平安に満たされているのをご覧になって満足されます。
しかし一方で、多くの人たちが、その恵みを受け取っていないのを、悲しんでおられます。
異邦人の時が完成する前に、多くの人が神に立ち返るのを願っておられます。
神のみもとに永遠のいのちがあり、永遠のいのちはイエス・キリストの御名とキリストの御霊とともにあります。
永遠のいのちを得ることのない人々の結末をご存知の神は、神の御子がご自分のいのちをかけて人々にお与えになった御救い、すなわち、「御霊による新しい創造」と「永遠のいのち」を得るように、と願っておられます。