天からサーチライトのような強い光が、あちらこちらと場所を移しながら無作為に、日本列島を照らしているのを、幻で見ました。
目があけられないほどの強い光です。
その光は物理的な光ではなく、霊的な光です。霊の開かれている人のうちに入ると、その人は永遠のものを求め始めます。その光は、永遠のいのち【真理の御霊】の光だからです。
また、天の光をあびて、救いに定められていた人たちの魂が覚醒し始めます。すると、その人のうちに、いのちの光がともるのです。
しかし、闇を愛する者の心には届きません。闇に慣れた目は、まぶしい光に思わず目を閉じます。
天からの光は、一か所に留まりません。光が当たったかと思ったら、すぐにほかの所に移って、別の地域を照らすのです。
神は、人の心をよくご存知です。祝福が長く続くと高慢になり、初めの感謝やへりくだりを忘れてしまいます。
真理の光に照らされたと思ったら、その光は離れて行きます。その祝福の時は長く続きません。人々の心を照らした光が離れて行くことで、彼らに救いを求めさせるためです。
「あなたがたは、(バプテスマの)ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。(バプテスマのヨハネは、自分のところにやって来る人に、ナザレのイエスが、世の罪を取り除く神の子羊キリストであることを告げました)
といっても、わたし(イエス)は人の証言を受けるのではありません。(神の御子イエスは、肉の人の証言を必要とするものではありません。イエスが神に遣わされたキリストであることを証言するのは、真理の御霊であるからです)わたし(神の御子イエス・キリスト)は、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。
彼(バプテスマのヨハネ)は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で(人〈バプテスマのヨハネ〉が教える真理の光の中で)楽しむことを願ったのです。」(ヨハネ5:33-35)
救いは、水のバプテスマを授けるバプテスマのヨハネにあるのではなく、聖霊のバプテスマを授ける神の子羊イエス・キリストにあるのです。
人々は、水のバプテスマによって、救いの望みを得て、その希望の光(信仰)の中で永遠のいのちを得させられる神の子どもの特権を楽しむことに満足しました。
しかし、その望みは、闇の世に燃えて輝くともしびであり、しばらくの間(世に生きている間)のものでした。
「私たちは、さらに確かな預言のみことば(イエスご自身のみことば)を持っています。
夜明け(「わたし〈神〉は、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」と仰せられたヨエル書の預言の成就の時、すなわち、聖霊の雨が降り注がれる時)となって、明けの明星(天からの教え、すなわち、真理の御霊)があなたがたの心の中を照らすまでは、暗い所を照らすともしび(信仰の希望)として、それ(人が教える聖書の教え)に心を留めているとよいのです。」(ペテロ第二1:19)
天からの光は、一か所に留まりません。人は怠惰なもので、光の恵みに慣れると堕落していくからです。
光を取り去ることによって、人は、闇の中で真理に飢え渇き、救いを求め、自分のうちに置かれた「真理を求めるまことの信仰の光」を頼みとして、永遠のいのちに辿り着くのです。
また、再び、闇に置かれることで、人はいのちの恵みを悟り、永遠のいのちを宝とするのです。
神の知恵です。
恵みに慣れると、人は、感謝しなくなるのです。
「イエスは宣教を開始して、言われた。
『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』
イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
イエスは彼らに言われた。
『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』
彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」(マタイ4:17-22)
神が、日本列島にいのちの光を照らされるとき、すなわち、聖霊の雨を注がれるとき、イエスの招きに応じてすぐに聞き従ったペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネのように、真理の御霊を受けて御霊の導きに聞き従う者は、永遠のいのちを得させられる「神の子ども」とされるのです。
その中には、のちに十二使徒となったペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネのように、聖霊に聞き従う忠実なイエスの弟子、神の役に立つ有能なしもべたちもいるのです。