関東大震災の時、朝鮮人が暴動を起こしたとか、井戸に毒を入れたというデマが広がって、一部の日本人によって、多くの朝鮮人が虐殺された暗い過去があります。
朝鮮人の中に日本人への恨みと憎しみが残されたでしょう。彼らの恨みは天に届いたと思われます。その答えとして、第二次世界大戦の時、東京は大空襲で焼け野原となりました。東京大空襲の犠牲者は約十万人で、そのうち、朝鮮人が約一万人と記録されています。日本人の人口に比べて、朝鮮人の人数は数%でしょうが、一割とは多いですよね。
「あなたに1ミリオン(約1、5キロ)行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン(約3キロ)行きなさい。」(マタイ5:41)
なんと、あなたは1ミリオン行けと強いられるならば、1ミリオン行きなさい、ではなくて、その強いる者もいっしょに、その倍の2ミリオン行かなければならない、とイエスは言われました。
強いる者も強いた者とともに負わなければならない、ということです。
恨みを持って復讐を誓い、神にその悲しみと怒りが受け入れられたならば、神は、その復讐をしてくださいます。しかし、復讐する者も、復讐したい相手といっしょにその呪いを受けることとなります。
「愛する人たち。自分で復讐をしてはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。
『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)
東京大空襲によって、東京は焼かれ、神は日本人の犯した罪を裁かれました。すでに裁かれた罪は、もはや裁かれることはありません。
また、日本人の中に、関東大震災時に起ったことを知って、追悼碑を建立して、虐殺された朝鮮人を追悼する活動をしている団体があります。
これらの日本人の活動により、神はなぐさめられ、そして、これらの日本人の行為は日本国の罪が神の御前で罪として残ることなく、神の御前で日本人の罪は赦されているのだと思います。
第二次世界大戦で日本国は、広島と長崎に原爆投下されました。
日本国は、原爆で受けた被害の賠償金をアメリカに請求することはありません。
キリスト教会で祈られる「主の祈り」の中には、「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という祈りがあります。
聖書を知らない日本民族が、聖書を知るキリスト者たちの信仰の歩みをしていたとは驚きです。
日本人は、聖書を知らなくても、目に見えない神を恐れる信仰があり、日本列島を襲う自然の猛威によって目に見えない神にへりくだることを学んでいたのです。
呪う者は、自分自身にもブーメランのようにその呪いが帰って来ます。神にゆだねたならば、呪いは手放すのです。恨みを持ち続けて自分自身で憎み続けることは、自分自身を滅ぼすことになります。
旧約聖書で、「目には目を、歯には歯を。」と言われたのを、ユダヤ人は知っています。
しかし、イエスは言われました。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父(神)の子どもになれるのです。」(マタイ5:44,45)
日本人は争うことではなく、状況を肌で感じ取って自分の感情をうちにおさめることを選ぶ傾向があります。
また、罪に気づくと心から詫びるような素直さもあります。
旧統一教会では、日本人は朝鮮人を苦しめた罪人で悪い者だ、その罪から解放されるためには貢物をもって朝鮮人に謝罪し続けなければならないかのように、日本人を洗脳しているのでしょう。
暗い過去を知った日本人はへりくだって悔い改め、罪が贖われるために必死になって要求されるままに貢物をしているのでしょう。
素直な人は、奴隷になりやすいのです。
しかし、神の御前で、日本人も朝鮮人も等しいのです。悔い改めたならば、神は罪を赦すお方です。いつまでも、牢の中に閉じ込めておかれるお方ではありません。
エンペラーウェザーという現象があるそうです。
天皇皇后陛下や敬宮愛子様がお出かけになられる先で、雨が止み光が差し込むという現象が起こっており、天候までもが天皇家を祝福していること、また、天皇家とともに神がおられるしるしのようにみられています。
それが、先日の悠仁様の成人式では、次の天皇となられると言われているのに、そのような天のしるしのようなものが感じられなかった、というような違和感を感じた人々もおられたようです。
そのことに対して、ある動画では、これは日本人の集合意識によるところだ、みなが悠仁様が天皇にふさわしい方であると祝福した思いで見るならば、その集合意識によって神の手が動くのだ、という意見がありました。
素直な日本人は、そんなものなのか、自分たちの祝福が足りないからだ、と反省するかもしれません。これは、旧統一教会に取り込まれた日本人の行動と同じではないか、と思いました。
天皇は、神の御前に出て、国民の安寧と世界平和のために執り成す祭司です。国民を守る祭司が、国民の敬意を受けなければ力が発揮できないとは、何とも心もとないことのように思います。
聖書に書かれた「偶像」を思い出しました。
「それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、(自分で)歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ10:5)
国民が「この人が天皇だ。天皇はこの人だ。」と認めるから、天皇の油が注がれるのではなく、神が天皇として召されたから、神は、天皇の執り成しの祈りを受け入れられるのです。そして、神は、国民にもわかるように、御自身が召した天皇とともに神がおられるというしるしを見せられるのです。
モーセは、神に召されたとき、神に申し上げました。
「ですが、彼ら(ユダヤ人たち)は私を信じず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなた(モーセ)に現われなかった。』と言うでしょうから。」(出エジプト4:1)
すると、神はモーセにしるしを与えて、仰せられました。
「これは、彼ら(ユダヤ人たち)の父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなた(モーセ)に現われたことを、彼ら(ユダヤ人たち)が信じるためである。」(出エジプト4:5)
神は、神御自身が召した神の人とともにおられ、神御自身が民にあかししてくださるのです。
天皇は、世界で唯一「エンペラー」という称号を持つお方で、ローマ教皇よりも格が上とされているようです。世界の平和のために執り成す大祭司なのです。
そのような神の人が、民が認めてくれなければ、神の力が現わせないというのでは、あまりにも情けないではありませんか。
教会でたとえれば、神に召された働き人の上に神の霊が働いていることを、キリスト者たちは霊によって捉えます。
牧師とともにおられる神の御霊を自分の霊で捉えるので、その牧師の権限にへりくだります。牧師だからへりくだるのではなく、牧師とともに神がおられることを悟るので、神の御霊によってへりくだるのです。
もし、神の御霊を持たない牧師であるなら、牧師という立場に失礼のないようには心掛けますが、心の中にぬぐえない違和感を感じるのです。
目に見えない神を信じ、自分の霊によって神の霊を知っている人たちは、御霊によって神からのものと神の息のないものとを見分ける感覚を持っているのです。
いのちの道を歩むことを望む人たちは、霊的感覚を養いましょう。
日本人の素直さを、神から出ていないものによって騙されて、偽りの偶像の奴隷とされないように気をつけましょう。
神の御霊を求め、神の御霊とともに歩み、御霊に教えられて、霊的感覚を養い、偶像に従うことを強要する悪い霊に騙されて、御救いを失うことがないように気をつけましょう。