「あなたがたは年数からすれば(霊的な)教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。(霊的に成長して御霊の助けにより自分自身の霊で判断する信仰の成人ではなく、人に教えてもらってようやく気づくような学びの段階に、まだいるのです。それは、今まで、肉の人のままで教えを受けており、肉に死んで御霊に教えられる経験を積んで来なかったからです)
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じていません。(神の御霊によって教えられていないので、罪の贖い、神の赦し、神の愛、真理の御霊、永遠のいのちなどの真理の教えは文字(「聖書」のみことばや人の教え)によって受けているだけで、神の御霊の導きが理解できないのです)幼子なのです。(成熟した信仰に成長していないのです)
しかし、堅い食物(肉に砕かれ痛みを伴いながら、自分自身の体験によって得た霊的学び)はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を(御霊によって)訓練された人たちの物です。」(へブル5:12-14)
イエスはユダヤ人たちに教えるとき、たとえで話されました。霊的な目が閉じ、霊的な耳が聞こえない人たちに、真理を説き明かしても、捉えることができないからです。
まず、堅い食物の真理のことばではなく、幼子に栄養を与える乳のたとえ話をしないと、飲み込むことができないからです。乳児には乳が必要です。歯のない乳児に大人の食べる堅い食物を与えることはしません。乳の中に乳児を生かす栄養があります。大人に必要な食べ物と幼子に必要な食べ物とは異なります。消化器の機能が成熟していないと栄養を吸収できないばかりか幼子のからだに害となるからです。
幼子のからだの成長に合わせて、乳から流動食へ、流動食から大人と同じ食物へ、そして、堅い食物も消化できるように成長していきます。
イエスは、ユダヤ人たちにはたとえ話で話されましたが、いつもいっしょにいる弟子たちには、たとえで話さず、みことばを解き明かし、また、父について、御国について、ご自分について、永遠のいのちについて、真理の御霊について、真理のことばをお話しになりました。
弟子たちは、イエスとともにいて、多くの奇蹟や不思議やしるしを見ており、真理に目が開かれ、耳が開かれる経験をしていたので、少しずつ成長していたからです。
日本の伝統的な師匠と弟子の関係のようでした。弟子たちはいつも師匠に目を向け耳を傾け、師匠の一挙手一投足を見て師匠から学び、また、師匠にならいつつ自分自身のからだで覚える者でした。
弟子たちは、イエスを信じました。そして、イエスに付き従いました。いつも一緒にいるうちに、イエスを知る者となりました。
イエスを信じる者から、イエスとともにいてイエスを見る者、イエスに聞く者、そして、イエスを知る者として成長していったのです。知れば知るほど、イエスの愛の深さ広さの計り知れない恵みを体験していきます。そして、ますます信頼が深まります。
神がイエスとともにおられることは、癒しを受けたユダヤ人、悪霊を追い出していただいたユダヤ人、イエスの愛に触れたユダヤ人たちのだれもが感じていました。
弟子たちは、感じるのではなく、自分たちの目で目撃し味わっていたのです。
イエスが十字架につけられて死に、墓から甦って弟子たちに現われると、弟子たちの信仰は確信に変わりました。
信仰の確信は現実のものとなり、弟子たちの日常生活となったのです。
イエスは、弟子たちの見ている間に天に上って行かれました。彼らは、肉眼ではっきりと見ました。幻ではありません。夢ではありません。霊的体験の出来事ではありません。自分たちの肉のからだのうちにあって、皆でいっしょに、墓から甦られた復活のからだで、イエスが天に上って行かれるのを、現実に見ていたのです。
弟子たちは、この不思議な光景の目撃者でした。彼らはイエスに現わされた数々の神の栄光の目撃者であり、体験者であり、証人でした。
彼らの信仰は、確信の伴う現実のものとなりました。彼らにとって、神の御子イエスは現実のお方であり、イエスを通して現わされた神の栄光も現実です。人の妄想や作り話ではありません。そして、イエスの語られた天の御国のことも、真理の御霊のことも、今は見ていないけれども、信仰によってすでに体験しているかのような、現実のものとなりました。
弟子たちは、イエスのことばを信じました。イエスのことばに従った弟子たちは、約束どおり、もうひとりの助け主【真理の御霊】を受けたのです。
キリストの御霊を受けた弟子たちは、自分たちの霊で、イエスの御思いを悟りました。真理の御霊がうちに住まわれて、イエスのことばを思い起こさせ、真理を教えてくださるのです。
肉眼で見ていたイエスはおられません。自分の耳で聞いていたイエスの御声は聞けません。しかし、今は、目に見えないけれども確かにともにおられる御霊を体験する者とされたのです。
御霊は、肉体を持っておられた神の御子イエスのように、たとえ話では語られません。真理のみことばを教えてくださいます。それで、真理のみことばを正しく受け取り、正しく理解するのです。弟子たちが賢くなったのでしょうか。
いいえ、御霊御自身が真理であり、知恵者なのです。知恵者のことばをそのまま受けているので、知恵ある者の歩みをするのです。
イエスを信じる弟子たちのうちに、全知全能の神の聖なる御霊がお住まいになられる、という分不相応な待遇を、神の御子イエス・キリストゆえに受けているのです。
御霊によって教えられるならば、義の教えに通じる大人に成長します。それは、御霊に祈り、御霊の導きを受け、御霊に聞き従うことで、霊的感覚が養われるからです。
牧師に聞き従っても、教会に聞き従っても、霊的に成長するものではありません。霊的な成長は、霊である御霊によって学ぶのです。
なぜ、御霊がわからないのでしょう。霊が開かれていないからです。肉の力で信仰しているからです。信仰とは目に見えないものを信じることです。肉の耳では聞けない神の御声を聞くことです。
肉体の人の命は血にあり、血の中に酸素を吹き込むのは呼吸です。呼吸を止めたら死んでしまいます。
御霊の人のいのちは御霊にあり、うちなる御霊の呼吸は、祈りです。祈りのないところに、御霊のいのちはありません。肉の力があるだけです。
ある知人から、聖霊のバプテスマを信じていない教会に集ってみて驚きだったことを聞きました。それは、その教会の「祈り」とは、祈祷文を読むことだったのです。
教会員はみな、それが祈りだと理解しています。自分の心にあるままを祈る祈りを知りません。自由な信仰の祈りを体験したことがないのです。
ひとりでいるときに、自分の心にあるままを、言葉にして祈りましょう。
御霊を身近に感じましょう。
まずは、一つ一つの出来事を御霊に挨拶するつもりで祈って見ましょう。
「おはようございます。今日は天気が良いですね。御霊様。」
当たり前と思って過ごして来た日常の一つ一つを口に出して、御霊に話しかけてみましょう。
「御霊様。きょうも一日無事に過ごせたことを感謝します。」今まで、「イエス様」と語りかけていたところを、「御霊様」にかえて言ってみましょう。
自分の霊の部分が柔らかになり、御霊が住み心地の良い場所になったなら、御霊も自由に語りかけてくださるようになるでしょう。
御霊の存在を聞いた事のない神道や仏教の人たちは、聖書のことばへのこだわりがない分、霊的体験をする機会があるのではないかと思います。
これは、大事な事です。体験は、感覚の訓練になるからです。
いつも祈っている人は、次第に霊的感覚で捉えることを学ぶようになっていきます。目に見えることによって決めつけるのではなく、目に見えない神の領域の部分に思いを向ける習慣がつくからです。
良い物と悪い物とを見分ける感覚は、霊の部分で学ぶことです。御霊に祈り、自分で何となく捉えたものは、後で、それが正しかったか、思い違いだったのか、結果でわかります。
正しいことを積み重ねるならば、感覚が敏感になっていきます。思い違いを積み重ねるならば、自分は思い込みが強いという事がわかって悔い改め、捉え方を修正するきっかけになります。
経験によって、良い物と悪い物とを見分ける感覚は訓練されていくのです。どんなに聖書を学び、知識を増し加えても、経験しないならば、御霊に教えられることにはなりません。
御霊に教えられないならば、義の教えに通じる者になっていないのです。
聖書を一時間読むよりも、素直な心で五分間祈った方が、霊的な感覚を養うのには役に立つのではないかと思います。
私たちは、信仰の勝利者となるための歩みをしています。
信仰の勝利者は、御霊の教会にはいる者です。御霊に教えられるならば、いのちの道を歩むのに、最もすぐれた助け主を得ているのです。