神道の神社には、仏教の仏像のような偶像はありません。
御神体として、鏡が置かれている神社はあります。
鏡に映るのはだれでしょう。神の御前で手を合わせている私たちひとりひとりです。それでは、鏡に映る私たちが神の姿ということでしょうか。
神は、私たちの存在の源であり、原因であり、理由であるお方です。
神は、人を、神に似せて造られたことが、聖書に書かれています。
「われわれ(父なる神、子なる神、聖霊)に似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのものを支配させよう。」(創世記1:26)
人は神に似せて造られたもの。造られた目的は、地のすべてのものを支配する管理者として、神に仕えるためでした。
全知全能の神、主は、「われわれ」と仰せられました。神は、おひとりと言われているのに、「われわれ」と仰せられています。父なる神、神の御子、聖霊の三位一体の神です。「三位一体の神」は、「わたしはある」と仰せられる神の真実な御姿です。
日本では、古くから目に見えない神々、いのちの根源神を畏れ敬い、祀って来ました。
目に見えない神々を、目に映る物に映し出して見ていたのです。山々に神の足台を見、岩に神の降り立つ磐座(いわくら)を見、風の中に神の息吹を見、太陽に神の栄光を見、夜空の星々に永遠を見、自然界に神のいのちの輝きを見ていたのです。
人は、被造物の最後に造られて置かれました。被造物すべては、人よりも先に生まれた先輩たちです。日本人は、先にあるものにへりくだるものでした。
日本列島の四季は、日本人の精神を育むのに重要な役割を担いました。一年十二カ月はグラデーションのように巡ります。
冬の白色から、薄桃色の桜、新芽の黄緑、梅雨と濃い緑、青い海と太陽の光、黄色から朱色、朱色から茶色と景色は移り変わり、灰色の空と白い雪。
しんと静まる白い息、雪解けによって芽吹く緑と小鳥たちのさえずり、小川のせせらぎとカエルの合唱、セミのざわめきとヒグラシの夕暮れ、秋の虫の音、焚火と冬支度。
ストーブの匂い、梅の匂い、土の匂い、沈丁花、藤の花の匂い、くちなし、金木犀の匂い、枯れ葉の匂い、イチョウの匂い、こたつの匂い。
雪の冷たさ、土の硬さ、柔らかな枝と葉、梅雨の湿気、日照りの暑さ、秋風の心地よさ、木枯らしの寒さ。
おせちと雑煮とみかん、タケノコとわらび、冷や麦、栗ご飯、まつたけ、焼き芋、お鍋。
色は視覚を養い、音は聴覚を養い、匂いは嗅覚を養い、気候は触覚を養い、気温とともに変化する食卓は味覚を養います。
日本の四季のグラデーション変化は、日本人の五感を敏感にし繊細にします。
日本人は、五感を使って、自然と共生して来たのです。
この世の君(闇の王)は世界を覆い尽くし、神の霊とともにあった日本人をも飲み尽くしました。
五感は野生的で知的ではない。原始的で近代的ではない。野暮ったくて文明的ではない。大人たちが闇の考えに感化されると、子どもたちも闇の中に閉じ込められました。
自然の中でかけ回っていた子どもたちは、塾へと追いやられます。日本人を育ててきた自然界は人間の舞台装置のようにみなされ、子どもたちの五感の成長は止まりました。
自然にかわり、科学が子どもたちの養育係となりました。自然に囲まれながら、自然が目に入らなくなってしまいました。
昔、日本の先人たちが自然から受けていた語りかけ、インスピレーションは、他人からの情報にかわりました。
自然が変わったのではありません。私たちが変わったのです。
自然が私たちを養わなくなったのではありません。私たちが、自然の語りかけに耳を閉ざし、世の中の喧騒や情報を宝としたのです。
世の中の情報は、私たちを豊かにするもので満ちていました。文明の力はすごいです。経済は成長し、日本人の努力は報われました。
経済混迷とともに、世にあるものは無常であることを思い出しました。「いつまでもあると思うな。親と金。」親は老いやがて世代はかわる。世の中が移ろうことは知っていました。
古から日本人の心を捉えた「諸行無常」のやるせなさに、目をどこに向けてよいやら。時折、心の奥底にしまわれていた情感が起き出しそうなのを感じると、何事もなかったかのようにそっと目を背けて、意識を日常に向けます。そんなことの繰り返しでした。
四季の国の日本人は、移り行く季節の儚さを知っていました。そこに、人生を映し出していたではありませんか。
日本人は冬には、春に向けてゆっくりと力を蓄えてきたではありませんか。必ず、春は来るのです。
「ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。
地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。
山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。
いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。」(雅歌2:11-13)
経済混迷に、日本人の心も迷いました。自暴自棄になる人、憤る人、無気力になる人。しかし、その中で、自分のうちに隠れていたDNAの記憶を取り戻す人たちも現われました。
自然と調和し、みなの心が平和だった頃の記憶です。
今まで、休息することなく、走り続けてきました。止まって勢いを失うことを恐れたからです。
しかし、社会情勢によって、強制的に止まることとなりました。立ち止まって見ると、走り続けることに限界を感じる内なる声が、常に「止まって。止まって。」と叫び続けていたことに思い至ります。「大丈夫。大丈夫。」と鼓舞しながら、心をすり減らしてきた事に気づきます。
何だったんだろう。立ち止まって見ると、今までの努力の報いはどこにあるのか。何が残っているのか。何かに踊らされていたようにも感じます。
日本人の記憶が少しずつ、健全に建て直されて行きます。学歴でもない、地位でもない、職業でもない、財産でもない。魂は、幼子の頃の純粋な喜びを取り戻します。
子どもはみなで遊び、新しい発見をし、自然も友達も兄弟もおじいちゃんおばあちゃんも環境すべてが教師であり、好奇心であり、喜びだったではないですか。
気づいた人たちは、隠された宝を見つけ、心が躍ります。魂の喜びです。生きていることの喜び、五感で感じる喜び。
人生の目的、生きる方向、希望を失ったと思ったときに、忘れていた宝を思い出したのです。
日本人には、もったいないという心がありました。無駄にはしません。漁師は必要な分量しか魚を捕獲しません。稚魚は逃がし、次の捕獲の為にたくわえるのです。欲張って多くを取り過ぎて粗末にすることはありません。
自然と共生する知恵、他者と和合する力、生きる喜びを味わう日々、お天道様に生かされているいのちの感謝と繋がりを思い出しました。
宝が、自分たちのうちにあったのです。記憶は消されていませんでした。和合の平安や知恵深さは、物質的豊かさにまさるものでした。心を擦り切らしながら、切れそうな繋がりの家族や近隣を足かせのように感じていました。しかし、それは惑わしでした。
物質的豊かさは持続するものではありません。いつも追いかけていなければ見失ってしまうものです。
自然は、日本人が正気に戻ることを待ってくれていました。山々の木々はまだらになり、荒れ果てても恨むことなく、日本人が再び、共生して生きる安らぎに帰るときを見守ってくれていました。
自然を管理するのは人間なのに、人間たちが自分の任務を捨てて自然から目を背け、破壊者たちに束縛されて滅びに向かうのを被造物が心配してくれていました。
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」(ローマ8:19)
自然界は、日本人から破壊を受けても、なお、望みを持っていました。
経済混迷は、神の御手が動いたのです。むなしいことから離れて、本当に価値あるもののために使う人生を思い出させてくれました。大切なのは、いのちです。
日本人は、少しずつ覚醒し始めています。自然に安らぎを得、家族や隣人との交流に、いのちの輝きを取り戻しています。
自然と共生し、和の精神に支えられていた社会が、再び、日本列島に生まれ始めているようです。
文明の豊かさと、経済成長の喜びのために犠牲にしてきたものです。
しかし、誘惑の手に捕らえられて奴隷になってみると、自然と共生して他者と和して生きることが日本人の本来の姿であると認知しました。魂の喜びは、目に見えないものからの賜物であったことに気づきました。ここに、日本人の求める真の自由があったのです。
日本人の良心は、欺く事、騙す事、中傷することではありません。魂に正直に、心に素直になってみると、平和と和合、この良心にアイデンティティーがあったのです。
神社の鏡に映し出されるのは、神を恐れ、自分を律し、神にへりくだる日本人の魂です。