ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊によって救われる

 

 律法を守ることを義と考えるユダヤ人たちは、異邦人と混血した十部族をサマリヤ人と呼んで外国人とみなしており、交際していませんでした。サマリヤ人は、神の選びの民ユダヤ人といっしょに神の契約を相続してはならないのです。サマリヤ人は、自ら神の律法を破って異邦人となったのですから。

 

 サマリヤ人は、アッシリアに捕囚された十部族の血を持っていますが、おそらくどの部族の血統なのかわからないほど異邦人化していたのでしょう。

 しかし、ユダヤ人の神、イスラエルの神を信じる民でした。

 

 ユダヤ人であるイエスが、サマリヤの女に声をかけることは、サマリヤ人の女にとって不思議なことでした。

 サマリヤの女は、イエスが自分の過去を言い当てるのを聞いて、預言者だと思いました。預言者とは、神に聞く人です。神のことばを伝える人です。

 

 イスラエルから除外されたサマリヤ人は、ユダヤ人たちが礼拝するエルサレムではなく、モーセが祝福のしるしの山とした「ゲルジム山」で神を礼拝していました。

 サマリヤの女は、ユダヤ人の預言者を前にして、本当のことを聞きたいと思いました。

 

 「女は(イエスに)言った。

 『先生。あなたは預言者だと思います。

 私たち(サマリヤ人)の先祖は、この山(ゲルジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは(ユダヤ人たちは)、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』

 イエスは彼女に言われた。

 『わたしの言うことを信じなさい。あなたがた(異邦人)が父(神の御子イエスの父、すなわち、天の神)を礼拝するのは、この山(ゲルジム山)でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたち(ユダヤ人)は知って礼拝しますが、あなたがた(異邦人)は知らないで礼拝しています。

 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父(天の神)を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々(霊によって神を知り、霊によって神を礼拝する人々)を礼拝者として求めておられるからです。(ユダヤ人の祭司でもなく、レビ人でもなく、ユダヤ人も異邦人もなく、霊によって生きておられるまことの生ける神を礼拝する者を求めておられるからです)

 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』」(ヨハネ4:19-24)

 

 もしこの場にユダヤ人がいるならば、非常に驚いたことでしょう。神を礼拝する場所は「エルサレム」であると、昔から決まっているのです。どこで礼拝してもよいとは、律法を覆す異端の教えではないですか。

 

 しかし、イエスは知っておられました。

 イエスご自身が天から遣わされ、ユダヤ人の律法を完成するために来られたことを。完成した律法は、もはやユダヤ人を縛ることがありません。完成した律法にとらわれることは、ありません。イエスは、ユダヤ人を律法から解放し、自由とされるのです。

 

 イエスは、神のことばの下におられました。律法の下におられたのではありません。神のことばを完全に守られたので、文字の律法を終わらせることができるのです。

 神は、神の子羊イエスの血によって、ユダヤ人の律法の違反の呪いを取り除き、ユダヤ人を律法から解放されました。

 

 神は、肉体を持つ神の御子の聖なる血と死によって、地上の神殿の聖所の幕を上から下に裂き、レビ族の大祭司の務めを終了されました。

 ダビデの子、ユダ族から出た獅子(神の御子イエス・キリスト)が、祭司の務めを神から受け、ご自身が担われるのです。

 

 神の御子キリストは、神の子羊イエスの血を携えて天の聖所にはいり、天の聖所で仕える「とこしえの大祭司」となられました。

 地上の神殿は役割を終え、「とこしえの大祭司」によって天上の神殿の礼拝の時が始まりました。これこそが、しきたりや人間の教えによる形式的な礼拝ではなく、霊とまことの礼拝であり、神が求めておられる、真の礼拝であり、真の神殿です。

 

 天の聖所で神に仕える「とこしえの大祭司」キリスト・イエスは、地上にも、霊とまことによって神を礼拝する神殿をつくられました。それは、聖霊の器です。聖霊の器は、聖霊の宮であり、神の神殿なのです。

 

 神は霊です。霊なる神を礼拝する者は、霊とまこと(汚れのない純真で真実な心)によって礼拝しなければならないのです。

 

 天から遣わされた神のひとり子イエス・キリストが、ご自分の血において世の罪を取り除き、神との和解を成し遂げられました。

 キリストは、ご自分の御名を呼ぶ人々に聖霊を授け、天と地との仲介者として、和解の務めをお与えになりました。

 

 ユダヤ人の神は、キリストにあって、すべての人の神となられました。

 「ユダヤ人とギリシャ人(異邦人)との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主(生けるまことの神)を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

 『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」(ローマ10:12)

 

 旧約聖書の教えの下にいるユダヤ人たちは、イエスの教えにつまずきました。律法を守ることの「義」をユダヤ民族の誉れとし、ほかの民族との差別化を望んだのです。

 

 新約聖書の教えの下にいるクリスチャンたちは、キリストの教えにつまずきました。聖書を信じることの「義」をクリスチャンの誉れとし、ほかの宗教との差別化を望んだのです。

 

 しかし、神の御救いは、文字にはありませんでした。聖書は、永遠のいのちを得させるために与えられていました。しかし、それには、信仰が必要です。

 神は、霊とまことによって、生けるまことの神を礼拝する礼拝者を求めておられます。人間の努力や熱心ではなく、霊的礼拝を求めておられるのです。

 目に見えない神を信仰によって礼拝する礼拝者こそが、天の御国にふさわしい礼拝者であり、キリストに似た神の子どもなのです。

 

 「わたしは、民でない者(ユダヤ人でもクリスチャンでもない者)のことで、あなたがたの妬みを起こさせ、無知な国民(聖書を知らない民の御救い)のことで、あなたがたを怒らせる。」(ローマ10:19)

 

 終わりの時代の救世主と呼ばれる日本列島から起こる「イスラエルのメシア」は、聖書を知らない人です。イエス・キリストの御名を呼ぶことはありません。

 しかし、多くの苦難を通して試みを経た石であり、慈愛と憐れみに満ち、霊なるお方に霊とまことによって仕える礼拝者です。

 イエスは知らないですが、霊なるお方は知っています。そして、混じり気のない真実な心で神仏の御救いを求める、魂の導き手なのです。

 

 イエスを知らないその人は、霊によって神の霊との交わりを持っています。聖書を知らない日本人たちは、霊によって、その人が神の人であることを捉えてついて行きます。

 様々な試みによって覚醒し、心の闇を悔改めて罪穢れから離れて、正しい道を捜し求めていた人たち、大和魂の目覚めによって、目に見えない神々にへりくだる人たちは、神の人を悟ります。

 

 澄んだ目の人にはわかる、と預言されています。霊的に覆いのかかっている人には、「イスラエルのメシア」が現われても、神の御救いが、その人とともにあることがわからないようです。

 聖書を信じる人でも、御霊に教えられなければわからないのです。

 

 「わたし(救い主イエス・キリスト)は、わたしを求めない者に見いだされ、わたし(イスラエルの神)をたずねない者に自分を現わした。」(ローマ10:20)

 

 「イスラエルのメシア」は仏教的な思想の人のようです。神と言う概念のない人であるかもしれません。しかし、目に見えない大いなる存在とともにあります。

 いのちの根源であられる霊なるお方が、イエス・キリストの父であり、イスラエルの神であることは、神に遣わされた白い兄の祈りによって知るのでしょう。

 パウロが、イエスの弟子アナニヤの祈りによって霊的な目が開かれたように、同様のことが起こるのではないかと思います。

 

 神は、ユダヤ教会を完成されるのではありません。キリスト教会を完成されるのではありません。

 御霊の教会を完成されるのです。

 霊とまことによって礼拝する、真の礼拝者を天の御国に集められます。

 

 聖書を知らない人たちの方が、霊が柔らかく、澄んだ目をしていて、イスラエルのメシアを悟り、いのちの道にはいっていきます。

 

 神は、聖書を知るユダヤ人やクリスチャンを捨てられるのでしょうか。

 「不従順で反抗する民(ユダヤ人は神が遣わされたイエスを信じず、イエスを信じるユダヤ人たちを迫害します。クリスチャンは神が遣わされた御霊を信じず、御霊を信じるクリスチャンたちを異端呼ばわりします。彼らは頑なな民です)に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」(ローマ10:21)

 

 すべての神が良いとされるもの、真理は神の御霊によらなければ理解できないのです。自分の信じる教理にこだわらず、へりくだって霊とまことを尽くすならば、目が開かれ、御救いを見ることができるでしょう。

 

 神の国は、御霊によって建て上げられます。

 神の子どもたちは、キリストの御霊によって生まれ、御霊によって救われるのです。