ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

違和感は魂のサイン

 

 違和感は、その人の霊的感覚が、現実と一致しない表われです。心理的に感じる不快感とも言えます。

 

 すなわち、その現実が自分のうちにある感性と相容れないものであることを認識させるためのサインです。自分の意識とは別に、心はせわしく働いています。

 

 私たちのうちにある魂は、罪の呪いから解放されて全き光の故郷に帰ることを目的とし、自分に与えられた生命の期間(私という人生)のうちに光を見、救いを得るために、そして、いのちの道を選択できるようにと、私たちのうちに様々なサインを送ってきます。

 

 御霊を受けていなくても、魂が目覚めていれば、私たちを正しい道に進ませるために良い助言を与えてくれます。

 ひとりの人の肉体の中には、警告を与えるもの(霊)と正しい選択を促すもの(魂)とが同居しています。霊肉魂を人と言い、「私」と呼びます。

 救いを得させるものは、遠くにあるものではなくて、私たち一人ひとりの中に置かれているのです。

 

 警告は、神に繋がる霊が伝えます。

 正しい道をさし示すのは、意識として存在する魂です。

 選択するのは、肉体の人です。神の霊と繋がる自分自身の霊の霊的感覚を捉えて魂が発信する忠告(違和感であったり、危機感であったり、恐怖であったり、謝罪であったり、悔い改めであったり、感謝であったり)を受け取り、魂の声に聞き従って、いのちを選ぶか、あるいは、魂の声を打ち消して聞く耳を持たずに死を選ぶかは、この肉体の人にかかっています。

 

 「神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

 

 神の霊が人を生きものとし、全能者の息が人にいのちを与えています。

 

 「さて、人が地上にふえ初め、彼ら(人)に娘たちが生まれたとき、神の子ら(天から追放された堕天使、すなわち、悪魔〈堕天使長〉の支配から逃れて悪霊にならなかった堕天使たち)は、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」(創世記6:1,2)

 

 人の血統に堕天使〈神に背いた神の子〉が混血すると、目的(海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうものを支配する管理者としての任務)を持つ「人」(神が「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と仰せられ、神に似せて造られた人)と、人に与えられた使命とを守るために、主は仰せられました。

 

 「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が(霊なる神と一つになり得ない)肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」(創世記6:3)

 

 人は、神のいのちの息が吹き込まれて生きものとなりました。しかし、神の霊がとどまるのは、百二十年と、神に定められました。神は、人の生命に寿命を定められたのです。

 

 神の霊がとどまっている間、肉体の人は生きています。

 生命を持って生きているのは、神の息があるからです。神の霊がその人のうちにとどまっているのです。

 

 たとい、蛇の言葉に聞き従って、エデンの園を追放されていても、人が生きている間は、神の霊がとどまっているので生きるのです。神のいのちの息は、人の肉体のうちにあって、人の霊となって、いのちの神と繋がっています。

 

 人の霊は、獣の霊(蛇の頭である悪魔の霊、すなわち、闇の霊)とともにあることもできますし、魂の警告に聞き従って光を求め、獣の道を外れることもできます。また、罪を悔い改めて、人の子の霊(永遠のいのちを得させる神の御子イエス・キリストのいのち)と繋がることもできます。

 

 闇を愛する人は、この世の霊、また、この世に働く闇の霊に違和感を持つことはありません。よく似た霊性を持っているので、なじむのです。

 しかし、光を愛する人は、この世に働く闇の霊に違和感を覚えます。闇の霊のうちに隠された偽りと汚れと不真実に、不快感と不信感を抱くからです。いのちの根源の霊とは異なる性質の霊だからです。

 

 光も闇も、霊です。物質の世界ではなく、霊の世界の実体です。肉体から抜け出た魂の永遠の居場所となります。

 人は肉体の中に在る間、すなわち、生命の期間に、自分自身の魂で、永遠の場所を選択します。

 

 霊的感性を捉えることができ、魂が捉えた霊の警告に従って、良い選択をする人は、光に向かって歩み、永遠のいのちの信仰を得ます。

 霊的に捉えることができ、また、魂が警告しても、違和感という自分自身の魂のサインよりも世の評価を恐れる人や孤独に耐えられない人は、自分のうちに芽生えた違和感を打ち消します。それを繰り返している間に、魂のサインがわからなくなります。そして、光に憧れながらも出会うことができず、あきらめてしまいます。

 

 悪い感情や欲望のいばらやおどろ、しがらみやこの世の価値観、目に見えるものを信頼して霊の目が閉じている人の霊的感性は働かず、魂は危険を察知することができないので、宙に浮いたような不安定な感覚を味わいます。違和感を感じるよりも、魂は居場所がなくて闇の中をさまよっているかのようです。

 霊も魂も、本来の機能を果たせないでいます。その人自身が、霊をきよめることや魂の声に耳を傾けることに関心を持たないからです。

 

 神道、仏教の教えの中に居る人は、聖書のみことばを知りません。しかし、自分自身の霊が魂に警告してくれます。目に見えないものを恐れる彼らは、自分の心のうちにわき起こる違和感に思いを向けます。魂の警告をないがしろにはしません。彼らは、真実な道を求めているからです。

 

 聖書を知らなくても、また、イエスが救い主であることを知らなくても、きよい生き方を心がけ、また、正直であることを大切にしている人ならば、自分自身の魂の声を聞くことができます。そして、魂の声に素直に従う人は、いのちの根源に思いを向けて、永遠への思いを抱くのでしょう。彼らは、神から遠く離れていません。

 

 神は、すべての人に警告を与えておられることでしょう。

 しかし、聞く耳のある人は多くはありません。

 

 身魂をきよめ磨くことを目指している人は、自分自身の霊によって目に見えない存在からの警告を受け取り、また、魂の忠告を自分の心で聞くことができるのでしょう。

 彼らは、自分のうちの霊的感覚、違和感によって守られています。自分のうちにかすめる違和感を素直に捉えて、死に至る危険な道に進まないようにと警告する魂のサインに聞き従うからです。