ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イザナギの涙と決断

 

 日本神話では、日本列島を造ったとされる、イザナギとその妻のイザナミのニ神が出て来ます。

 

 この男神の伊弉諾神(いざなぎのかみ)と、女神の伊弉冉神(いざなみのかみ)は、国が出来上がると、大勢の神々を産みました。風の神、海の神、山の神、野の神、川の神、火の神。

 

 火の神を産んだ時に、やけどを負って、イザナミは死んでしまいました。愛する妻を失ったイザナギは泣き悲しみ、イザナミを葬ると、イザナミは黄泉の国という死んだ人の行く真っ暗な国へ行ってしまいました。

 イザナギは、イザナミを死に至らせた火の神を怒って、長い剣で切り殺しました。しかし、イザナギのくやしさは癒えません。

 

 もう一度イザナミに会いたいと、イザナギはとうとう、真っ暗な黄泉の国まで出かけて行きました。イザナギは真っ暗な中で亡き妻イザナミに呼びかけました。

 もう一度帰って来て、いっしょに国を完成させようと言ったのです。

 それを聞いたイザナミは、黄泉の神に相談してみると伝え、「どんなことがあっても、決して私の姿をご覧にならないでください。」と懇願して、黄泉の神のもとに行ったきり、イザナミは出て来ません。

 長い間入口で待ちくたびれたイザナギは、待ち切れずに、小さな灯をともしてわずかに闇を照らしながら、中にはいってしまったのです。

 

 すると、イザナギは、奥で寝ていたイザナミの姿を見てしまいました。

 それはそれは、不気味な姿でした。

 体中べとべとに腐りくずれていて、臭いいやな臭いが鼻につき、見ると、べとべとに腐ったからだ中には、うじがうようよとたかっていました。

 

 イザナギは、その有り様を見ると、恐ろしさのあまり、急いで逃げ出しました。

 自分のみにくい姿を見られてしまったイザナミは、恥とくやしさから怒って、鬼たちを追いかけさせました。イザナギは、追いかけてくる鬼どもに、様々な物を投げつけながら、黄泉の国との境の黄泉比良坂(よもつひらざか)まで、ほうほうのていで逃げのびました。しかし、鬼はまだ追いかけて来ます。

 その坂に一本のももの木があったので、イザナギはももの実を取って、近づく鬼どもに力一杯投げつけると、鬼たちはびっくりして逃げて行きました。

 そこへ、イザナギを捕まえられない鬼どもにじれったくなったイザナミ自身が追っかけて来るのが見えると、イザナギはそこにあった大岩をひっかかえて、大岩で坂の口をふさぐと、イザナミとの隔てとし、自分はもとのところに帰りました。

 

 イザナギは、汚い所の穢れを払おうと、きれいな川で洗い、からだを清めて神々を生み、左の目を洗うと天照大神(あまてらすおおかみ)を、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)を、最後に鼻を洗うと建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を生んだとあります。

 イザナギは、天照大神には、天へのぼって高天原(たかまのはら)を治めるように、月読命には、夜の国を治めるように、須佐之男命には、大海の上を治めるように言い渡したとあります。

 

 日本の統治に大きく関わる天照大神も、月読命も、須佐之男命も、イザナギひとりが生んだということになります。イザナミは、日本国の環境をイザナギといっしょにつくったということのようです。

 

 日本国の国土と環境造りをしたイザナミは、日本国に住む生物の誕生には関わっていない、という事だと思いました。

 聖書に照らし合わて考えてみるとわかりやすいです。イザナギとイザナミのふたりはエデンの園を造ったが、その中に住む生きものを造ったのは、イザナギひとりであった、ということになるでしょう。

 

 イザナミは、死んで黄泉の国に行きました。イザナミのからだ中には、うじ虫がたかっていたというではありませんか。

 

 「彼ら(主に贖われた人たち)は出て行って、わたし(神)に背いた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌み嫌われる。」(イザヤ66:24)

 

 イエスは言われました。

 「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それ(罪を犯させるあなたの目を)えぐり出しなさい。片目で神の国にはいる(悔い改め罪から離れて永遠のいのちを得る)ほうが、両目そろっていて(火のバプテスマを憎み悔い改めることなく罪から離れずに汚れた肉体のまま)ゲヘナ(永遠に燃える火の池、すなわち、地獄)に投げ入れられるよりは、(御救いを求め、永遠のいのちを求める)あなたにとってよいことです。

 そこ(ゲヘナ)では、彼らの(体中の)うじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」(マルコ9:47,48)

 

 うじ虫は、地獄の象徴です。イザナミには、裁き主に裁かれる罪があったようです。

 

 「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」(マルコ9:49)

 塩は腐敗から守るものです。すなわち、火のバプテスマ(神の懲らしめと、罪を燃やす聖めの火)は、その人を滅ぼすためではなく、その人から罪の習慣を取り除き天の御国にはいるのにふさわしい者に造り変えるための神の御恵みです)

 

 火の神を生んだ時にやけどを負って死んだイザナミは、その火の苦しみの中で悔い改めることをしなかった強情な者だったのでしょう。もしかすれば、火の神は、懲らしめによってイザナミを正しい道に戻すために生まれたのかもしれません。

 

 夫のイザナギは、生まれた子ども(火の神)を殺してしまったことが書かれています。イザナギにとって、イザナミは大切な妻だったのです。本当にイザナミを愛していました。

 

 さて、日本国に人が増えて人間社会が出来上がると、天照大神の孫のニニギノミコトが地上を治める者として遣わされました。天孫降臨です。

 ニニギノミコトの妻となったのは、国津神のオオヤマツミノカミの娘コノハナサクヤヒメです。コノハナサクヤヒメは、火をつけた小屋の中で子どもを産みました。コノハナサクヤヒメは、イザナミとは違って、火で害を受けることはありませんでした。

 

 コノハナサクヤヒメは、火の神として崇められ、富士山の浅間神社の御祭神です。聖めの火のバプテスマをくぐり抜けて、聖なるものとされている、聖なる火の神です。

 地獄で焼き尽くす裁きの火ではありません。罪をきよめ、神の御前に立たせるきよめの火の神です。

 

 日本列島に生を受けた日本民族は、火の神によって死んだイザナミから生まれてはいません。イザナミの死後、イザナギによって生まれた神々の子孫です。

 

 淡路島に行ったときのことです。良い天候に合わせて神社巡りをしていましたので、雨の日にぶつかることはありませんでした。

 ところが、伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)は違っていました。曇りの予報であったのに、伊弉諾神宮最寄りのバス停に降りて、鳥居をくぐって歩き始めると雲行きが怪しくなって来ました。

 拝殿で手を合わせた後で、急に雨が降り始めました。なんてこった、と思いました。

 少し雨宿りしましたが、やみそうにないので、しかたなく、持参の雨がっぱを着て、次の予定の岩上神社に歩いて向かいました。

 

 神の降臨にふさわしい巨石(神籠石〈ヒモロギイシ〉)があります。狭い階段を上って、その巨石に手が届くくらいの所まで行って祈りました。

 誰もいません。私ひとりでした。それで、その場所で、イスラエルの神を褒め歌うキリスト教会で讃美される賛美をしました。初めは小さなささやきのように歌っていましたが、喜びがわき起こって大声で天に向かって賛美しました。

 雨は上がり強風が吹き続けて、何かにつかまっていないと倒れそうでした。それでも、賛美しました。そして、主に感謝して、再び、伊弉諾神宮の近くにあるバス停を目指して歩きました。

 

 その道中、ずっと風が吹き続けていました。着ていた雨がっぱは地面に水平にたなびいていました。見ると、雨がっぱから雨の痕跡が消え始めていました。

 心の中で神を賛美しながら歩きました。

 伊弉諾神宮のところまで来たときには、ぐっしょりと濡れて中まで染みていた雨がっぱは、乾き切っていました。完全に乾いていたのです。びっくりしました。

 

 バスの出発時刻までに時間があったので、再び、伊弉諾神宮に行って、岩上神社に行って来たことの報告などを祈りました。

 雨は上がっていたのに、伊弉諾神宮の拝殿に近づく頃からまた雨が降り出しました。

 

 岩上神社では雨がやみ、強風で雨がっぱまで乾いたのに、なぜ、伊弉諾神宮では、二度も雨が降るのだろう、と思いました。

 私にとっては珍しい境内の雨です。

 何か空が泣いているように感じました。雨で、私の心も曇って来ます。天を見上げるよりも、目を地に落としてしまう心持ちになりました。

 

 後から思いました。伊弉諾神宮の御祭神は、イザナギとイザナミの二神です。

 聖書にある夜明けの時代は、体中うじ虫にたかられたイザナミの永遠の死が決定される時が近づいているということです。

 今は、死の国、黄泉の国にいますが、永遠の死は、永遠の火の池の中なのです。そこにはいると、もう二度とそこから出ることはできません。

 

 光の子らには、永遠のいのちを得させられる希望の年ですが、闇の子らには、永遠の死が定まる滅びの年なのです。もはや悔い改めるチャンスはありません。やり直しはきかないのです。

 

 たとい、みにくくなったイザナミの姿を見たとしても、イザナギは、愛する妻イザナミの永遠の死を望まないことでしょう。イザナミの魂の滅びは、イザナギの嘆きであり、悔いであり、痛み、悲しみなのです。

 

 伊弉諾神宮の雨は、イザナギの涙であったのではないかと思いました。

 

 さて、聖なる火の神コノハナサクヤヒメの山、富士山に、国常立の神が鎮座されたようです。長きにわたって封印されていた丑寅の金神(うしとらのこんじん)の封印が解かれたのです。

 

 聖なる神の裁きを恐れて、ほかの神々は、裁き主である国常立命を封印したのかもしれません。私には、国常立命(くにたちのみこと)は、日本人に現われた、聖なる火のバプテスマを授けるキリストの姿のように思われます。

 

 聖なる火の神コノハナサクヤヒメの富士山に、裁き主である国常立命が鎮座されたということは、いよいよ、光と闇とがはっきりと分かれる時が来たということでしょう。

 イザナギは、物質的な神の国、日本国の、国造りをしました。

 国常立命は、とこしえの神の国の国造りをされる、世界の神です。いいえ、世界ではなく、宇宙の神です。

 

 イザナギが、その時に至ったことを受け入れて、イザナミの永遠の死を悼む涙を飲んで、光と闇との分別のために下される日本列島のみそぎを受け入れ、また、日本人にきよめの火のバプテスマを授ける事を認めるとき(きよめの火のバプテスマが下るならば、光を求めない者、悔い改めない者は闇に定められます。すると、光を選ばない人たちの救いの道は完全に断ち切られるのです)、光を求める子らのために、永遠のいのちの「神の国」の建国が始まることでしょう。

 すなわち、もう一つの国(目に見える現象の日本人の日本国とは別に、目に見えない意識の世界の霊的な日本人の神の国)が起こるのでしょう。