ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ローマ書十二章 からだを生きた供え物として神にささげなさい

 

 異邦人の使徒パウロは言います。

 「私は、神の憐れみのゆえに、あなたがたにお願いします。

 あなたがたのからだを、(聖なる)神に受け入れられる(神に喜ばれる)、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

 

 文語体聖書でみると、

 「われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧む、己が身を神の悦びたまふ潔き活ける供物として献げよ、これ霊の祭りなり。」

 

 あらゆる罪を赦してくださる神の憐れみを賜って、神の赦しの豊かさと恵み深い慈愛に感謝しつつ、キリストの聖い血で贖われた自分自身のからだを神に献げることは、どんな供え物にもまさっています。

 この供え物は、神に献げることを意識して、神の喜ばれる聖い供え物として心をこめて自分自身を世にある価値のないものから聖別し、また、感謝と喜びに満ちる生き生きとしたいのちの悦びに輝く最上の供え物です。

 

 自分のからだを、神に喜ばれる、聖い、生きた供え物としてささげることは、神を祝う、自分自身の霊から出る真実な祭りです。

 

 ダビデ王は、そのような礼拝をする人でした。

 「ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。

 主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛を生贄としてささげた。

 ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。

 ダビデとイスラエルの全家(ユダヤ民族十二部族)は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。

 主の箱はダビデの町にはいった。サウル(王)の娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼(夫であるダビデ王)をさげすんだ。

 こうして彼らは、主の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真中の場所に安置した。それから、ダビデは主の前に、全焼の生贄と和解の生贄をささげた。

 ダビデは、全焼の生贄と和解の生贄をささげ終えてから、万軍の主の御名によって民を祝福した。そして民全部、イスラエルの群衆全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。」(サムエル第二6:12-19)

 

 ダビデ王は、人目も気にせず、主を喜び、主の前で、力の限り踊りました。ダビデの心は、主とともにあったのです。主とダビデとの間を妨げるものは何もありません。たとい、妻の目に卑しく見えて妻に蔑まれても、ダビデの心は主にあったのです。

 このような、幼子のようなダビデの純真な心と純粋な信仰を、神は喜ばれました。生き生きとした神への悦びを全身で現わすダビデの礼拝は、霊の祭りです。

 

 ダビデは、安息日に神の御前に集まり、それ以外の日はこの世と妥協しながら生きている人ではありませんでした。日々、神とともにありました。神の御心を尋ね求める人でした。

 数々の罪を犯し失敗もしましたが、お母さんに悪さが見つかって「お母さん。ごめんなさい。ごめんなさい。」と泣いて謝る幼子のように、その都度、神に悔い改めて、罪が赦されていました。幾度も罪を赦されたダビデは、神の赦しと神の愛とを深く知る者となったのです。

 

 パウロは言います。

 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、(神の子どもとして)完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

 

 口語訳聖書を見ると、

 「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって(心の向きを世のものから天にあるものへと変えることによって)、(神の御子イエス・キリストの御霊によって)造り変えられ、何が神の御旨であるか、何が(神に受け入れられるとこしえの)善であって、神に喜ばれ、かつ全きこと(真理)であるかを、(御霊に教えられて)わきまえ知るべきである。」

 

 キリスト者は大勢いますが、同じではありません。

 神御自身が、おのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じた働きがあります。

 

 「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだ(キリストのからだ)であり、ひとりひとり互いに(キリストのからだの)器官なのです。(ひとりひとりにふさわしい働きが与えられています)

 私たちは、与えられた恵み(神がおのおのに分け与えられた御霊の賜物)に従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

 勧めをする人は勧め、分け与える(賜物の)人(寄付する人)は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう(賜物の)人は喜んでそれをしなさい。

 愛に偽りがあってはなりません。(兄弟姉妹を欺く)悪を憎み、善に親しみなさい。

 兄弟愛をもって心から互いに(主にあって)愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 (天の御国に)望みを抱いて喜び、(この世の)患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。(絶えず神の霊と交わっていなさい)

 聖徒の入用に協力し(貧しい聖徒を助け)、旅人をもてなしなさい。

 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。

 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

 互いにひとつ心(神との平和を求める心)になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。(悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい)

 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:4-18)

 

 「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)

 

 キリストの血の御恵みによって、罪が贖われ、神と和解した人は、自分自身のからだを生きた供え物として神にささげるならば、人生が変わります。

 聖なる神に受け入れられる供え物となるために、聖くなることを求めることでしょう。

 

 神の御心のうちを歩むことを願う「新しい心」を得るならば、神の御心は何か、何が良いことで、神に受け入れられ、何が真理であるかをわきまえ知るために、自分自身の価値観は変えられていくのです。

 

 これこそ、神に喜ばれる生きた供え物であり、地上にあって肉なる私たちの霊的な礼拝なのです。