世界を救うと噂されている、ホピ族に伝承されている「卍の紋章の人」、すなわち、死海文書の「イスラエルのメシア」が出現する日が近いようです。
この人は、聖書の黙示録にある、ユダヤ人の時に立つ「ふたりの証人」のうちのひとりです。日本人ですが、ユダヤの血統の人のようです。
YouTube Nihon Eyes の【海外の反応】10月2日、天が裂ける!石山和尚の衝撃預言―新しい救世主が誕生するのか?と、【海外の反応】10月2日!!日本の運命と「60年の秘密」がついに明かされる、の二つの動画で知りました。
石山和尚という日本人と、ブランドン・ビックスと言うアメリカ人牧師のふたりは、それぞれ、日本から起こる「イスラエルのメシア」についての預言をいただいています。仏教からと、キリスト教から、神は、証言者を立てられました。
仏教は、日本人の魂を形成した「いのち」の教えです。すべての者は、一つであることを教えます。仏教では、先祖供養をし、先祖への感謝を大切にします。
しかし、転生輪廻の思想のないキリスト教会では、先祖との関わりについて、また、血の繋がりについての思いは暗く、先祖のことは話題にのぼりません。
宮澤賢治の詩に、「雨ニモマケズ」があります。
その詩の最後には、「みんなにでくの坊(役に立たない人)と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい。」とあり、念仏のようなもので締めくくられています。
宮澤賢治の思想の根本には、法華経の教えがありました。熱心な仏教の法華経信仰を持っていました。
しかし、この「雨ニモマケズ」のモデルとされたのは、なんと斎藤宗次郎というクリスチャンだそうです。
彼は、イスラエル無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の最も忠実な弟子の一人であったようです。
内村鑑三は、十代半ばまでは熱心な仏教や神道の信者であり、儒教的道徳の信奉者でした。しかし、札幌農学校で、クラーク博士に強い影響を受けた一期生の先輩たちから、半ば強制的に「イエスを信じる者の誓約」に署名させられると、唯一神信仰は方々の神々に祈りをささげなくてもよく、内村は、そこに安らぎを持ったようです。
内村は、西洋のキリスト教に相対化する日本人の精神に基づく教会を捉え、また、日本国に対してイエスの目で浄化する愛国心を持ったようです。
内村は、キリスト教的西洋の普遍を、日本で包み直し、新しい普遍を生み出そうとしたのではないか、と東京大学東アジア藝文書院のブログに書かれています。
内村には、日本文化や武士道的風土は、アメリカのキリスト教徒よりも、キリスト教的(すなわち、聖書的)に思われたようです。
内村は、日本独自の無教会主義を唱えました。その弟子である斎藤宗次郎の生き方に、宮澤賢治は感銘を受けたようです。しかし、だからといって、賢治はクリスチャンになることはありませんでした。
日本人の魂のDNAには、先祖から受け継いだものがあるのです。
キリスト教会では、仏壇を異教徒のものとして取り除かせるところもあります。一神教信仰のキリスト教は、他のものを信仰対象にしてはならないのです。
このことに、日本人の心は閉じてしまうのでしょう。キリスト教徒になるためには、日本人の心を捨てなければならないと思うのです。
私は、中学生の時、同じクラスの子の住む町へ行き、あるお墓を参ったことがあります。そのお墓の前に立った時の感覚を今でもはっきりと覚えています。目に見えない何かが、さぁ~っと降り注がれたような感覚です。
50年以上前の日常の中にある、ある一日の一瞬の記憶があるっていうのも不思議な事です。
また、そのお墓の人物が住んでいたとされる、今は建物のないその場所に立った時、天が開かれたような不思議な感覚がありました。
40歳過ぎて中年になってから、そのお墓が、最初に加木屋と名乗った先祖の父親だったのでは、ということがわかってきました。しかし、苗字については意識していませんでした。
50代になって、鍵谷は、もともと加木屋だったということを知りました。父は、加木屋の名前の証文を保管していました。
十四万四千人のユダヤ人に、「子羊の名」と「子羊の父の名」を印する「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」が日本人だと知った私は、仏教と神道から救い主とされる人が起こるのだと思って、神社巡りを始めました。
最近のことですが、天児屋根命(言霊の神とされるアメノコヤネノミコト)が祀られた東京の小さな神社の境内にある稲荷神社で手を合わせていると、祠の中からささやくような声が聞こえてきました。
「だれの娘や。」「鍵谷○○(父の名前)の娘や。」「鍵谷○○??知らんなぁ。」と、私が聞いていることも知らずに、ひそひそと話しているのです。
私は、「東京の神社の神が、なんで、岐阜の父親の名前を知っとるんや?」「なんで、関西弁なんや?」と思いました。
しかし、この体験で、日本昔話に書いてあることは、本当に起こっていたんだ。昔の日本人は、神々の話し声を聞いていたんだと思いました。
いろいろな神社を回るうちに、天児屋根命に出会ったとき、この神が私の守り神のように感じました。
奈良の御所市にある、高鴨神社の本殿東側の東宮の前に立った時、中学生の時に体験した、あのお墓の前に立った時の体験とよく似た感覚を味わいました。
喜ぶ霊の歓迎を受けたような、遠い過去の故郷に帰ったような懐かしさに触れ、歓迎してくれる暖かくも優しい空間に立っているように感じました。
ご祭神は誰かな、と思って、ご祭神の名前が書かれた板をみると、天児屋命(あめのこやねのみこと)の名前を見つけました。
私たち日本人は、自分で意識していないだけで、先祖の守り、神々の守りを受けていると思います。
それを、キリスト教会に入ると断ち切らなければならないので、根から切り取られた切り花になってしまい、しばらくすると、生気を失い、日本人が持っていた霊的感覚を見失ってしまうように思います。
世の終わりに立つメシアと呼ばれる人たちは、キリスト教徒ではありません。
かつて、京都の教会で礼拝していた頃のこと、一人の人が預言をしました。「リバイバルの器は、キリスト教会の外にいる。」
私の霊は、神の霊による預言だと、捉えました。
キリスト教会の働きは、異邦人の完成のなる時までです。終わりの時代の魂を刈り取る働きをする「ふたりの証人」も、「十四万四千人のユダヤ人」も、血統的には異邦人ではなくてヤコブの子孫であるユダヤ人の血統の人たちです。神がユダヤ人たちに残された「ユダヤ人の時」に働く人たちだからです。
ふたりの証人のうちのひとりは、卍の紋章のある人、すなわち、仏教的思想のある人です。いのちは一つ、すべてのものはいのちによって繋がっていて、人も自然の一部であることを知る人です。先祖あっての自分であり、一人で存在しているのではないこと、すべては繋がっていることを知っています。
もうひとりは、○の紋章のある人、すなわち、神道的思想のある人です。目に見えない神によって生かされていることを知り、霊によって神を捉え、霊と真実な聖い心をもって神を礼拝すること、また、神々に守られていることへの感謝をささげるために、身魂をきよめることを大切にする人です。
十四万四千人のユダヤ人は、仏教、神道、キリスト教の宗教的人間の教え、また、あらゆる宗教と呼ばれるものに関わったことなく、自分自身の魂で本物を見分ける日本人独自の精神性を持つ無宗教の人たちのようです。神道と仏教の精神性がミックスした聖い魂のようです。
神道の精神性と仏教の精神性とが一つにされると、聖書の神に至り、キリストの教え(天の神、生けるまことの神の御教え)を生きるとは、不思議なことです。
インドの非暴力主義を貫いたヒンズー教徒のガンジーは、真理とは神であり、神は、愛によってわかる、「私は、神が愛であるということを、確信をもって言うことができる。」と言っているようです。愛が真理、すなわち、神に至る道である、と言っているのです。ヒンズー教徒のガンジーが行き着いた究極の真理は、聖書の中にありました。
聖書の神に辿り着く道を、日本人は、魂のうちに持っているのです。
そして、その日本人の魂を目覚めさせてくれる「イスラエルのメシア」がまもなく現われるようです。仏教も神道もキリスト教も融和するただ一つの真理が、日本人の魂の中に眠っているのを、目覚めさせてくれるのでしょう。
キリスト教徒も、自分のうちにある魂に素直になれば、聖書の中から得ることのできなかった(人間の教えでは理解できなかった)、生きた霊、生けるまことの神に触れて、いのちの神を知り、真理の自由を得るのでしょう。