神は、神のしもべモーセを立てて、四百年間奴隷として苦役に苦しんだアブラハム、イサク、ヤコブの子孫を、エジプトから連れ出して、奴隷の家エジプトから解放され、父祖アブラハムにお与えになった約束のカナンの地に導き入れるために、荒野へと導かれました。
戦いに慣れていないユダヤ民族が、ほかの民族との戦いに恐れをなして、エジプトの地に引き返すことのないようにと、神は、ほかの民族と出会うことのない荒野へと、ヤコブの子孫ユダヤ民族を導かれました。荒野を通ってカナンの地に入らせるためです。
神は、荒野でユダヤ民族に出会い、天からマナ(天からのパン)を降らせ、岩から水を湧き出させて、彼らを養われました。
神は、モーセに命じて、民と契約を結び、エジプトから連れ出した民を、ヤコブにお与えになった「イスラエル」の名前で呼ばれました。そして、アブラハムに現われた全能の神、主は、アブラハムの子孫であるユダヤ民族の神となられ、御自身を「イスラエルの神」と名乗られました。
神は、全地の中から、セム族のアブラハムを選び、アブラハムの子孫イスラエルを、悪魔を踏み砕く「人の子」(女から生まれる神のひとり子キリスト)を遣わす、神の選びの民とされました。
アブラハムは神の契約のしるしとして、割礼を受けました。アブラハムの子孫であるユダヤ民族もまた、割礼のしるしを持つ民です。
神は、割礼の民イスラエルと契約を結び、神の御計画を担う神の祭司の国民とするために、イスラエルに「神の律法」を与えられました。そして、永遠のいのちを得させるために書かれた書物『聖書』をゆだねられました。
モーセは言いました。
「神である主は、あなたがたのために、私(モーセ)のようなひとりの預言者(民を導くために、神に遣わされるひとりの預言者)を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方(キリスト〈キリストの御霊〉)があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」(使徒3:22,23)
イスラエルは、モーセのことばを聞きました。そして、ほかの律法を守りつつ、モーセが聞き従わなければならない、と命じたキリストを待ち望みました。
実は、この律法は、永遠のいのちを得るために、大切な律法でした。神が遣わされる、民を導くキリストに聞き従うことは、永遠のいのちの律法だからです。
律法の違反を恐れるあまり、ほかの律法を守ることに気を配るユダヤ人たちは、この最も大切な律法を守ることができませんでした。
実は、この一つの律法には、この一つの律法を守ることによって、すべての律法を守った事にされる、と言う神の大盤振る舞いな御恵みが隠されていました。
神が遣わされるキリスト(神の御子イエス)は、ご自分の血を流して、民の律法の違反を帳消しにされたのです。キリストに聞き従うことによって、すべての罪は赦され、神に義とされる、というから驚きです。
キリストは、ユダヤ民族に与えられた律法を完全に守るユダヤ人となって、ユダヤ民族の律法の違反の呪いを代わりに受けてくださいました。
ユダヤ人は、律法から解放されました。キリストは、律法を完成して、イスラエルの契約を完成されたのです。
アブラハムから継承している割礼も、イスラエルに与えられた律法も、キリストによって古い契約となりました。肉の割礼も律法も、もはや、神の民のしるしでありません。
神は、永遠のいのちを得させるために、イスラエルに『聖書』をお与えになりました。
そして、神は、永遠のいのちを得させるために、文字の律法に代わって「生きたことば」をお与えになりました。「生きたことば」は、神が遣わされた神の御子イエスのことばです。
永遠のいのちを得させる「文字」の契約は、永遠のいのちを得させる「生ける神の御子イエス・キリストのことば」の契約となりました。
聖書の文字の教えではなく、キリストの御霊による教えであり、生ける神御自身の御霊が教師となるのです。
肉の割礼はユダヤ人のしるしであって、永遠のいのちのしるしではありません。
神は、イエス・キリストの御名という、永遠のいのちのしるしを心に置かれます。キリストの御霊である「真理の御霊」を受ける人は、心の割礼が施され、御霊によって新しい創造を受けます。肉の人は、御霊の人に造り変えられるのです。
永遠のいのちのしるしは、肉の割礼ではなく、御霊による心の割礼です。
永遠のいのちの教えは、聖書の文字ではなく、御霊の教えであり、生ける神の霊的な学びです。
終わりの時代、聖書を知らなかった人々も、生ける神の御霊によって導かれて、生ける神のみことばに聞き従うのです。それは、信仰によります。宗教の壁を越えて、愛と赦しと和解と平和な心によって、実現することでしょう。
永遠のいのちは、宗教の中にあるのではなく、真理を求める信仰にあるのです。真理は神であり、神は愛の中におられます。
パリサイ人たちがイエスに、「律法の中で、大切な戒めはどれですか。」と尋ねると、イエスは答えられました。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である(いのちの)主を愛せよ。』
これが大切な第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。
律法全体(神の契約)と預言者(神のことば)とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、(あなたがたも)ほかの人にそのようにしなさい。これが律法(天の御国の法)であり預言者(救い主キリスト)です。」(マタイ7:12)
パウロは言います。
「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ5:14)
「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」(ローマ13:8)
パウロは、愛は結びの帯として完全だと言います。愛のあるところに平和があり、平和のきずなで結ばれてるところに、御霊の一致があります。
肉の割礼と律法を持つ旧約聖書の民イスラエルは、モーセが命じた「聞き従わなければならない預言者(キリスト)」に聞き従わないことで、救いを失いました。
神が遣わされた預言者イエス・キリストを信じる新約聖書の民キリスト者は、神の御子イエスが命じた「聖霊を受けよ。」に聞き従わないことで、救いがわからなくなっています。
神は、不従順な旧約聖書の民ユダヤ人と、不信仰な新約聖書の民キリスト者に、再挑戦する「恵みの時」を備えておられます。
神は、愛と赦しと平和の預言者「イスラエルのメシア」を、終わりの時代に立てられます。彼は「聖書」によらず、生ける神の霊による生きざまによって、人々の希望の光となります。
彼は霊とまことによって心に割礼を持つ人です。愛と赦しと憐みと平和の心によって、生ける神と和解している、和解の務めの人です。
神は、キリストの御霊をその人の上に置かれます。生ける神とともにいるその人は、子羊の名と子羊の父の名を悟るときまで、イエス・キリストの名を知らないのかもしれません。しかし、彼は、すべての真理も愛も信仰も希望も、イエス・キリストにあることを知るのです。
旧約聖書の民イスラエルは、イエス・キリストにつまずきました。
新約聖書の民キリスト者は、聖霊につまずきました。
しかし、新旧両約聖書の民、御霊の教えに留まる新しい人は、永遠のいのちの御霊の信仰を得ます。
神は、愛、赦し、和解、平和、きよい魂、憐れみ、へりくだり、親切、柔和、義に飢え渇く魂、悲しむ魂、心の砕かれた者に、とこしえの希望を与えられます。
神のことばを語るしもべを遣わされるのです。「イスラエルのメシア」は、神の御国の力を現わす神のしもべです。
彼の存在は、日本人の大和魂を呼び覚まし、目に見えないいのちの主を仰ぐ民とするでしょう。日本人に愛を取り戻させて、神との和解と平安、いのちの感謝と喜び、とこしえの希望の信仰の光をともすのでしょう。
悔い改めて自分の意識を天に向け、神に望みを持つ人々は、心に割礼を受ける人々です。光をともす民となります。
霊によって、真理を見分けます。偽りのことばから離れ、真理のみことばに聞き従います。
聖書のみことばを知らない人たちも、霊の覚醒によって、いのちを生かす正しい道を捉えて、いのちの道を歩みます。
神の御子イエス・キリストを信じることのできなかったユダヤ人たちも、彼に聞き従います。彼が、神に召された者であることを悟るからです。
彼は、十二部族のユダヤ人をイスラエルに集め、神の神殿を建てるでしょう。
神は、「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」のふたりの証人を立てられます。
聖書には、預言されています。
「わたし(キリスト)がわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て(悔い改めの衣装を着て)千二百六十日の間預言する。」(黙示録11:3)
聖書のみことばによって救われるのではなく、心に芽生える信仰によって救われる時が近づいています。
知識が永遠のいのちを得させるのではなくて、生ける神の御霊が真理を悟らせ、心に信仰と愛と平安を与え、感謝と喜びと希望とともに、永遠のいのちを得させる信仰の道に導かれるのです。