ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

十字架ではなく肉と血

 

 ユダの王アハズの子ヒゼキヤ王は、父祖ダビデ王が行なったとおりに、主の目にかなうことを行ないました。

 「彼(ヒゼキヤ)は高き所(偶像礼拝の場所)を取り除き、石の柱をを打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これ(青銅の蛇)に香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」(列王記第二18:4)

 

 イスラエルは、神が忌み嫌う高き所に、先祖が荒野で神の救いを見た青銅の蛇を祀っていました。

 

 奴隷の家エジプトから連れ出され荒野を行くイスラエルは、天から降って来るマナ(神が荒野でイスラエルを養うために、天から降らせられたパン)に飽きて、エジプトの食べ物を懐かしみ、奴隷生活から解放された感謝を失っていました。民の中には、何もない荒野を出て奴隷の家エジプトに戻ろうと考える者も現われました。

 

 エジプトで死んでいたほうがましだった、とつぶやく民に、神は怒りを発せられ、毒蛇を送って、つぶやく者たちを噛ませられました。毒蛇に噛まれた者たちは、瀕死の状態です。

 神は、モーセに、「青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべて毒蛇に噛まれた者は、青銅の蛇を仰ぎ見れば、生きる。」と仰せられました。

 モーセは、青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけました。毒蛇に噛まれた反逆の民に言いました。「すべて噛まれた者は、青銅の蛇を仰ぎ見れば、生きる。」(民数記21:8)

 

 もし毒蛇が人を噛んでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きました。

 神は、民の信仰を試されました。神のことばを信じるか、信じないか。

 神を信じる者は神のことばを信じます。神のことばを信じる者は、神は、先祖の地、約束のカナンの地に導き入れるためにエジプトから救い出してくださった良き神であることに望みを持つ者です。

 神を信じない者は神のことばを信じません。神に望みを持っていないからです。荒野生活に疲れて、失望と不信感でいっぱいの彼らは、本当に先祖の地にはいることができるのか、と疑います。神のしもべモーセに落胆し、神に不信感を持って、神の良き御計画を信じる事ができず、神とモーセに反抗します。

 

 神のことばに望みを持つ者は、青銅の蛇を仰ぎ見ると、蛇に噛まれていても、生きました。

 

 青銅の蛇は、後に、神がイスラエルに遣わされるキリスト、すなわち、神の子羊イエスのひな型でした。

 十字架につけられた神の子羊イエスを信じて仰ぎ見る者は生き、子羊イエスの十字架の罪の贖いを信じない者は、不信仰によって、永遠に死ぬこととなります。

 

 神は、神が遣わされた救い主イエス・キリストの御救いを信じる者を、その信仰によって義とされ、いのちをお与えになります。

 神は、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じず、キリストの御救いを侮る者を、その不信仰によって不義とし、永遠の死を宣告されます。

 

 さて、荒野のイスラエルは、青銅の蛇を仰ぎ見て生きた人々を見て、神の赦しと憐みを知りました。

 神につぶやき、神を信じない不信仰は、不義であること。また、神にへりくだり罪人のまま神のことばを仰ぐならば、神は罪を赦して生かしてくださる良き方であることを知りました。

 

 イスラエルは、神の憐れみと赦しのひな型である青銅の蛇を、カナンの地まで持ち運び、「ネフシュタン」と呼び、なんと七百年もの間、イスラエルの崇拝の対象となっていたようです。

 

 しかし、ヒゼキヤ王は、偶像崇拝を憎み、イスラエル人が礼拝する偶像を打ち壊しました。そのとき、青銅の蛇も打ち砕きました。

 これは、神の御心にかなったことでした。

 

 キリストは十字架で死なれ、十字架で罪の贖いの血を流されました。永遠のいのちを求める者は、キリストの贖いの血を通らなければなりません。キリストの血を受けなければ、罪人のままです。

 

 それで、キリスト教会では、私たちの罪を贖ってくださるキリストの罪の赦しの象徴をキリストのかかられた十字架に見ています。十字架が救いだと思うのです。

 

 これは、もしかすると、ユダヤ人と同じ過ちを犯しているのかも知れません。

 青銅の蛇に、赦しと救いの信仰を持つユダヤ人は、神御自身を見ていないのです。

 神に感謝しているから、先祖たちを毒蛇の猛毒の死から救ってくださった神の栄光を、目に見える青銅の蛇に映しているのではないか、そして、神のみわざを忘れないで記念しているではないか、と言うかもしれません。

 

 神は、神御自身への信仰をご覧になりたいのです。しかし、青銅の蛇を祀るユダヤ人に、目に見えない霊なる神にささげる、霊的な礼拝を見る事ができないのです。

 青銅の蛇を祀るユダヤ人は、イスラエルの神を、アシェラ像など外国の神々と並べて敬っているのです。

 

 「地の果てのすべての者よ。

 わたし(罪を贖い、新しい創造をして永遠のいのちを得させるキリストの御霊)を仰ぎ見て救われよ。

 わたし(霊なる生けるまことの神、主)が神である。ほかにはいない。(「神」と呼ばれるものは、天地万物を造り、人に新しい創造をし、新しい人に新しい天と新しい地を創造する「生けるまことの神」だけである)」(イザヤ45:22)

 

 「わたし(いのちの根源である霊なる神)のほかに神はいない。

 正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。」(イザヤ45:21)

 

 神は、御自身を人間がつくったほかの神々と並べられることを憎み、不義とされます。

 人は神に造られたものです。そのことを知り、創造主であられる神を、霊とまことによって礼拝することが正しいことです。

 

 かつて、キリストの十字架の跡とされる場所を記念して建てられた教会で、神に語られたことがあります。

 「わたしはこのような記念を望んではいない。わたしが望む記念は、パンとぶどう酒と、互いに足を洗う洗足の記念である。」

 

 神は、キリストの十字架による御救いの記念として、罪を贖う神の子羊イエスの肉と血を記念する「パンとぶどう酒の聖餐」、また、イエスが弟子たちの足を洗われたように、互いに仕え合うことを望んでおられたのです。

 

 十字架を仰ぎ見るのではなく、死から甦られたキリストの新しいいのち、御霊なる神、主御自身を仰ぐことを望んでおられます。

 

 イエスは、最後の過越の食事を弟子たちとともにされました。

 「(イエスは)パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。

 『これ(過越しのパン)は、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたし(神の子羊イエス)を覚えてこれを行ないなさい。(世の罪を取り除くために、罪の贖いの生贄の子羊として肉を裂かれるイエスを覚えて、神の子羊イエスのからだである、パンをともに食べて、記念としなさい)』

 食事の後、杯も同じようにして言われた。

 『この杯(葡萄酒)は、あなたがた(の罪の贖い)のために、流されるわたしの血(イエスが十字架で流される罪を贖う神の子羊の血)による新しい契約です。』」(ルカ22:19,20)

 

 イエスは、十字架を覚えて、「十字架」の形そのものを罪の贖いのしるしとしなさい、とは言われませんでした。

 罪の裁きのためにむち打たれ裂かれたイエスの肉と、十字架で流されたイエスの血とを、御救いのしるしとし、弟子たちがともに集まってイエスの肉としてのパンとイエスの血としての葡萄酒をともにいただくことで、神の子羊イエスのからだと一つとなる記念としなさい、と言われたのです。

 

 キリストのからだの一部となることは、神の子羊イエスの十字架の死と、死から復活したキリストのからだとともになることなのです。

 

 イエスは、十字架を記念することではなく、十字架につけられて死から復活した神の子羊イエスのからだの中にはいって、キリストとひとつになることを命じられました。

 なぜならば、新しい契約は十字架にあるのではなく、十字架で流されたイエス・キリストの血にあるからです。

 

 十字架は死刑の道具です。キリストのかかられていない十字架に御救いがあるわけではありません。また、キリストは三日目に墓から甦られました。キリストは、十字架の上にも、墓の中にもおられません。

 

 神は契約のために、血を要求されます。初めの契約は、獣の血でした。

 しかし、新しい契約は、神の御子イエス・キリストの血です。

 イエスが命じられた聖餐のぶどう酒が、新しい契約のしるしなのです。

 

 青銅の蛇がユダヤ人の偶像となったように、キリストの十字架もまた、キリスト教会の偶像となってしまいました。

 

 イエスは外国人であるサマリヤ人に言われました。

 「わたし(イエス)の言うことを信じなさい。

 あなたがたが父(いのちの根源であられる生けるまことの神)を礼拝するのは、この山(それぞれの国、それぞれの民族で礼拝している神殿)でもなく、エルサレム(イスラエルの神の神殿)でもない、そういう時が来ます。

 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたち(ユダヤ人)は(ユダヤ人の中に救い主がいることを)知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 神は霊ですから、(霊なる)神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(目に見えるものを拝むのではなく、自分自身の霊によって、目に見えない霊なる神に信仰を持つ時が来ます。その礼拝こそが、生けるまことの神が受け入れられる礼拝です)」(ヨハネ4:21-24)

 

 神の子羊イエスは、肉に死んで、御霊によって生まれました。御霊は、新しく生まれて神の子どもに造り変えられるからだ、すなわち、死から復活したキリストのからだのしるしです。

 新生した人は、キリストと同じ一つの御霊を飲む者とされ、キリストのからだとされたのです。