「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」(ローマ14:1-3)
ユダヤ人は、豚肉を食べません。神の律法によって禁じられているからです。
しかし、律法はイエスにより完成されて廃棄されたので、もはや、ユダヤ人は食物規定の違反によってさばかれることはありません。
イエスは弟子たちを遣わすとき、「どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。」と言われました。
イエスは、十字架の死において、ユダヤ人と異邦人の壁を取り除くお方です。また、ご自身において、ユダヤ人の律法を完成されます。
もはや、ユダヤ人は律法の下に留まらなくてよいのです。
イエスを信じてキリストの御霊を持つパウロは言います。
「市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。
地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。
しかし、もしだれかが、『これは偶像にささげた肉です。』とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために(そう告げた人をつまずかせないために)、食べてはいけません。」(コリント第一10:25-28)
「私たちを神に近づけるのは食物ではありません。(肉を食べないから神に受け入れられ、肉を食べているからさばかれる、というようなことはありません)
食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
ただ、あなたがたのこの権利(もはや、律法の下にいるのではないという信仰)が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。」(コリント第一8:8、9)
「私たちは、世の偶像の神は(人間がつくりあげた物で)実際にはないものであること、また、(天地万物を造られた)唯一の神(いのちの根源であられる生けるまことの神)以外には神は存在しないことを知っています。
なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのもの(被造物)はこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しています。(父なる神は、私たちの存在の目的であり、また原因でもある方です)
また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主(創造主であり救い主である神のひとり子)によって存在し、私たちもこの主(私たちの罪を贖い永遠のいのちを得させられる神の御子キリスト・イエス)によって存在するのです。
しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。(真理を知る者は多くはありません)ある人たちは、今までなじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。(偶像の神の御利益として食べていた古い人の習慣のまま食べて、神の栄光を汚し、信仰がわからなくなるのです。〈いのちの神も、偶像の神々も同じもののように思って、キリストの血の贖いも永遠のいのちもあいまいなものとなるのです〉)」(コリント第一8:4-7)
「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。(あなたの食べ物のことで、兄弟が心を痛めているのなら、そこにあなたの愛はありません。汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。兄弟をつまずかせたり、信仰の弱い兄弟の妨げになるものを置かないように決心しなさい)
ですから、あなたがたが(自分で)良いとしている事柄によって、そしられないようにしなさい。」(ローマ14:15,16)
神の国は、義と平和と聖霊による喜びです。
兄弟を侮ってつまずかせることなく、また、兄弟をさばくことなく、互いを認め合い、受け入れ合うならば、愛が支配します。
「このように(私たちの代わりに死んでくださった救い主イエス)キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
そういうわけですから、私たちは、(互いの)平和に役立つこと(赦し合うこと、受け入れ合うこと、認め合うこと)と、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」(ローマ14:18,19)
何でも食べてよいという教えを、疑いを感じる人が食べるなら、それは、罪に定められると、聖書は言います。
あの人もこの人も食べているのに、私が食べて、なぜ罪に定められるのか、とその人は思うでしょう。
しかし、聖書は、その行為には、信仰がないと言います。疑いを感じながらする事は、信仰から出ていないのです。
「信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)
神がご覧になられるのは、行ないの背後にある信仰と動機です。動機の良くない行為、信仰の伴わない行為は、神の御国にふさわしくないのです。
神は信仰によって、義とされます。
「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。」(ローマ14:22)
人の意見によって、やじろべえのように動く信仰は、その人自身の信仰とは言えません。
「ある日を、他の日と比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。(どちらも、神に受け入れられているのです)
それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ14:5)
「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。(みずから良いと定めたことについて、やましいと思わない人は幸いです。疑いを感じるならば、それは信仰から出ていません)」(ローマ14:22)