人の肉体の中には、魂と霊があります。魂は意識、霊はいのちの根源とつながる受信体のようなものです。
いのちの根源であり、人を造られた創造主であられる主は、エデンの園に置いた人に命じられました。
「あなたは、園の(中にある木の)どの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)
最初の人アダムとエバは、偽りを証言する蛇に騙され、神の禁じられた「善悪を知る知識の木」から取って、善悪の知識の木の実を食べました。
善悪の知識の木の実を食べた人の意識は、主ではなく自分に向けられました。主に背いたことに気づいたふたりは、主の御顔を避けて園の木の間に身を隠しました。
神の愛に憩い、神との調和と平安に満たされていたふたりは、主の御顔を恐れる者となりました。善悪の知識の木の実を食べたそのとき、彼らは死んだからです。神との霊的パイプが外れて、いのちの根源のいのちが流れなくなってしまったのです。
人の霊は死にました。肉体は生きていても、霊は死に、死人となったのです。
霊の死人に、神の霊との交わりは断ち切られました。
神である主は仰せられました。
「見よ。人はわれわれ(神格者であり、絶対主権を持つ御父、御子、御霊)のひとりのようになり(自分を主人とする意識「自我」を持つ者となり)、善悪を知るようになった。(魂の主である神の善から離れ、自分自身の善を持ち、善悪を判断する者となった)
(主の命令に背いた)今、(霊が死んでしまった)彼が、手を伸ばし、(永遠に生きるための)いのちの木からも(実を)取って食べ、(霊が死んだまま〈死人のまま〉)永遠に生きないように。(霊が死んで神と断絶した死人が、神に背いたまま永遠に生きることのないように、死人が永遠のいのちの世界で生き続けることがないように、すなわち、死人は死人にふさわしい死の国で生きるように)」(創世記3:22)
霊が死ぬと、魂の意識は混濁し神がわからなくなりました。自意識が占領したのです。
罪が満ち、暴虐が満ちると、神は、神を恐れる正しい心のノアとノアの家族を残して、世を大水で洗い流し被造物を一掃し、そして、取り残しておいたノアから、世の営みを再スタートされました。
ノアの子孫は、地に増え広がりました。
エデンの園から追放された「霊の死人」の寿命は、120年と定められました。生命のある限り、罪を犯し続ける肉体の人に定められた寿命です。
しかし、いのちの根源であられる神は、アダムとエバをエデンの園から追放されるとき、すでに死人を生かすための御計画をお持ちでした。
罪人の罪を赦すために贖いの血を流す「神の子羊」と、死人の霊を甦らせて永遠のいのちを得させるための「生かす御霊」を用意しておられたのです。
「神の子羊」は、肉体を持つ神のひとり子です。
神は、霊なる神格者であられる神のひとり子に、人と同じ肉体を造り、罪の世に遣わされます。世の罪を取り除く子羊の贖いの血を得るためです。
「生かす御霊」は、聖霊です。
罪の贖いの血を流す神の子羊を、死から甦らせられる御霊です。
神は、神の子羊を遣わすために、人類の中にふさわしい人を捜されました。
全地を見渡し、セムの子アブラハムを見い出されました。神は、アブラハムと契約し、アブラハムの子孫であるイスラエルを選ばれました。
神は、イスラエルと契約し、「イスラエルの神」となられました。
天地万物を造られた全能の主、アブラハムの神は、イスラエルの神となって、イスラエル王国のダビデ王の子孫のヨセフの許嫁である処女マリアの胎に、天から遣わす「人の子」(神のひとり子に肉体を造って、神の民イスラエルにお与えになった救世主イエス・キリスト)を宿されました。
神の子羊イエスは、神と契約を持つ民族ユダヤ人の間を巡り、天地万物を造られ存在するすべてのものの父である神、すなわち、ユダヤ人が「私たちの神」と呼んでいる「イスラエルの神」について、「天の御国」について、「永遠のいのち」について教えました。
天から来られた神の御子イエスは、ご自分が見たまま、聞いたままを話されたのです。
神の子羊イエスは、神の御計画に従って、神の祭司の国民の手によって十字架にかかり、世の罪を取り除く神の子羊の、罪の贖いの血を流されました。
神の御子イエスは、墓に葬られ、三日目に甦り、一度に五百人の弟子に会うことのできる新しい御霊のからだで甦られました。
神の御子イエスは、罪の贖いの子羊の血を携えて死の国にはいり、死に閉じ込められていた霊の死人の魂を、子羊の血で買い戻されました。
神の御子キリストを信じて子羊イエスの血を受ける死者は、罪が贖われて悪魔と死の縄目は解かれ、永遠のいのちの信仰と希望をいただきます。
神は、聖霊によって、子羊イエスを死から甦らせ、死の国から救い出して永遠のいのちへと移されました。
神は、神が全き者であると認める「人の子」すなわち、神の子羊イエスの死と復活によって、新しい人を創造されました。
神は、人の子イエスを、一度死んでも、死から甦り、永遠に生きる全き人の子、「新しい人」の初穂とされました。
新しい人は、エデンの園を追放されたアダムの子ではありません。アダムに死に、御霊によって生まれた第二のアダムです。
神は、アダムが食べないようにと守られた「いのちの木」の実を食べる第二のアダム、すなわち、「キリスト」の血によって罪が贖われ、「生かす御霊」によって新しく造り変えられて神の子羊イエスのご性質をかたち造られた、新しい創造の「新しい人」を生んでくださいます。
復活した神の子羊イエスを天に引き上げ、神は、キリストの権威をお与えになりました。聖霊のバプテスマを授ける権威をお与えになったのです。
それゆえ、イエス・キリストの御名には、聖霊を授ける力があるのです。
イエス・キリストが聖霊のバプテスマを授ける権威を受けられたのは、二千年前のことです。
神は、イエス・キリストの御名によって、地に生かす御霊を注がれます。真理を教える真理の御霊、キリストを証する神の聖霊であり、キリストの御霊です。
今は、聖霊の時代です。神の霊が注がれています。
世界中に、預言する者や夢や幻で神の啓示を受ける人々が現われています。
大阪・関西万博の閉会式を観ていて、気づいたことがあります。
この万博に隠された二つの日本国の姿です。
ひとつは、いのちの根源であられる生けるまことの神に立ち返り、永遠のいのちを得させられる千年王国に辿る、魂が生きるいのちの道を選んだ人たちのはいるとこしえの国です。意識が天に向かい、目に見えない霊なる神に繋がるのです。
もうひとつは、霊が生きる疑似体験の世界です。意識は自分にあり、科学の進歩と人間の造り出す想像の世界を創造する日本国です。意識の記憶は生き続けても、魂は生き続けることはありません。
この二つのものは、どちらも、日本国から世界に向けて発信される、いのち輝く未来の世界だと思いました。
閉会式の7日前に天皇皇后両陛下が国連パビリオンに立たれると、エデンの園の回復と言われる「千年王国」の扉が開かれたようです。神の御子キリストが王となって治められる「とこしえのイスラエル王国」に集められる生きる魂の、まことの光の「千年王国」です。
生きることを求めて、魂の違和感を軽んじることなく、魂の声に素直である人々は、意識が天に向かう人々です。
きよい事を求める魂、義に飢え渇く魂、愛と和合と平和を求める魂の意識は神に受け入れられて、断絶していた霊はいのちの根源に繋がります。
彼らは、エデンの園から追放されたアダムのようではありません。神を恐れて身を隠す者ではなく、神を畏れて自分の罪を言い表わし、神に感謝と賛美をささげる者です。
「千年王国」の霊の扉が開いたと同時に、千年間の世界の扉も開きました。千年間の世界の扉が開くと、永遠のいのちを得て魂が生きる人々の通る「いのちの道」は隠されました。
どちらの道を選んでも、千年という時間はあります。しかし、千年間を過ごした先の世界は分かれます。
意識を神に向けて魂が生きる道を選んだ人たちは、天の御国にはいります。
意識を自分と地に向けて疑似体験の世界に生きる人たちは、裁きの座に立ちます。
大阪・関西万博の未使用チケットのことで考えさせられました。
開催期間に幾度も会場に入場できた人々もいれば、遠いところからやって来て何時間も並んで待っていても、持っているチケットを使えず、会場に入れない人たちもいました。これは、この世の有り様です。世界は不平等で矛盾に満ちています。一方が平等である、と主張すれば、もう一方は言葉を飲み込むほかない世界です。
ダビデの時代、戦いに出た兵士たちと、戦いに疲れて荷物のそばに留まった兵士たちがいました。
戦いに勝利して分捕り物を手に帰って来た兵士は、荷物のそばに留まっていた兵士たちを見て言いました。
「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。」(サムエル第一30:22)
聖書では、そのように言った人のことを、意地の悪い、よこしまな者たちと言っています。私もその中にはいっています。
ダビデはどうしたでしょうか。
戦いに疲れてダビデについて来ることのできなかった人たちに近づいて、彼らの安否を尋ねました。ダビデは、ついて来れないほどに疲れていた人たちのからだを心配したのです。
そして、言いました。
「『(ダビデとともに行って戦い勝利を取った)兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物(戦利品)を、そのようにしてはならない。(戦いに出た者だけで分け合うことはならない)主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。
だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。』
その日以来、ダビデはこれをイスラエルの掟とし、定めとした。今日もそうである。」(サムエル第一30:23-25)
とこしえのイスラエルの王キリストも同じです。誰にも恥をかかせず、誰をもないがしろにはされません。すべてのものに公平な主は、すべてのものを愛と調和と平和でひとつにされます。すべての者がキリストの愛に満たされ喜びと感謝によって主を仰ぎ見るのです。