ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠のいのちを得る者の住まい

 

 「私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても(肉体が滅んでも)、(生けるまことの)神の下さる建物(御霊のからだ)があることを、(永遠のいのちを得させられる)私たちは知っています。

 それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(人の作った機械や新しい次元を思わせるようなからだではなく、神御自身がお与えになる御霊のからだです。永遠に生きる魂をいれる、新しい創造の新しいからだです)

 私たちはこの幕屋(死が定められた肉体)にあってうめき、この天から与えられる住まい(死から甦る御霊のからだ)を着たいと望んでいます。

 それ(御霊のからだ)を着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。(魂は御霊のからだを着て永遠に生き続けます。しかし、御霊のからだを得られない魂は裸であり、人間は裸を隠すために、機械のからだを模索して作り出します)」(コリント第二5:1-3)

 

 スピリチュアルな人たちの間で、次元上昇が語られています。

 霊的に敏感な人々には、新しい世界が始まることがわかるようです。それは、肉体の人間が生きる三次元の物質世界ではなく、時間空間に拘束されない五次元世界に向かっていると言うのです。

 

 一次元は直線の世界。

 二次元は平面の世界。

 三次元は奥行により立体の世界。

 四次元は時間を変化させることのできる世界。

 五次元は無数の時間軸を持った空間、すなわち、パラレルワールドが存在する世界。

 

 宇宙人の存在を信じる彼らは、銀河連合の宇宙人からの情報を受けて、来たるべき五次元世界へのアセンション(上昇)に向けての備えを教えています。

 

 アセンションには、昇進、昇格、昇天の意味があるそうで、地球そのものが、不自由な肉体の三次元世界から、時間、空間の束縛のない五次元世界に昇進するというのです。

 

 私たちの主イエスが死から甦られて弟子たちに現れた「復活のからだ」のような世界と捉えれば、わかりやすいかと思います。

 復活のからだのイエス・キリストは、弟子たちの目に見える姿でした。(肉の人、すなわち、イエスを信じないユダヤ人たちの目には見えなかったようです。信仰の目で見ることのできる霊的な現実世界です)また、戸に鍵のかかっている部屋の中にも自由に行き来できる御霊のからだです。(透明人間のようですね。しかし、実際には、新しい骨と新しい肉のある新しいからだがあります。神が創造される新しいからだは、透明人間のような機能や、食べたり飲んだりできる人間のような機能、空間に縛られずに瞬間移動する機能があります。また、その世界は、時間に縛られずに一度に五百人の人に現れたという復活のキリストが体現された過去現在未来が一つの世界であり、人間の想像をはるかに超えた、新しい次元の世界であり、新しい創造の世界です)

 

 霊的存在は、聖書に書かれた新しい世界「千年王国」の時代が近づいていることを、人間よりも早く察知しています。

 その世界では、言語の違いは問題ではありません。言葉を使わなくても意思疎通できるインスピレーションが働く霊的世界です。

 

 神を信じない人々は、その霊的世界を自分たちの手で実現しようと、霊的な存在からの知識と知恵と力を受けて、人間が到達できなかった霊的次元に踏み込む開発をしています。

 3Dプリンターは、3次元世界の卒業の証のようなものです。人間は神の領域に入る用意がされたのです。

 

 不老不死の解決も、人間の手でできるかもしれない。このような希望を持つ人々の心からは、神への畏れと信仰の種は取り除かれます。

 

 人間は、神を畏れ神につく信仰の人と、神への恐れを嘲笑い神を信じない人とに分かれます。

 

 神を畏れ神に信仰を持つ人たちは、神が用意された「千年王国」を目指します。

 神を恐れず神を信じない人たちは、人間の科学の進化に期待し、人間の手で五次元の世界を実現しようとします。

 

 どちらも、今の世界が終わって、死の恐怖から解放される千年間の新しい世界を目指しているのです。

 

 永遠のいのちを求める人々は、人間が作る新しい次元の世界には興味を持ちません。その世界に、希望ではなく恐怖を感じます。千年間が終われば、その幻想の世界は跡形もなく消え去ることを知っているからです。それは、現実の世界ではありません。現実のように見えて、当てのないものなのです。現在、私たちが住んでいる地球が滅びるなんてことは考えられない、と思う思考と同じです。

 

 魂の救いを望む人たちは、まやかしの慰めを必要とはしません。永遠のいのちが欲しいのです。必ず生きる確信がほしいのです。

 それゆえ、昔も今もこれからも永遠に生きる神に望みを置きます。永遠に存在される神がくださる約束は確かであり、また、神は、魂の救いとからだの贖いとを実現し、死から甦り復活した神の子羊イエス・キリストと同じ「御霊のからだ」を与えてくださると信じているからです。

 

 「確かにこの幕屋(肉体)の中にいる間は、私たちは重荷(解決できない生老病死の悩みと、罪の奴隷にさせる悪しき者の攻撃と試み)を負って、うめいています。それは、この幕屋(肉のからだ)を脱ぎたいと思うからではなく、かえって天からの住まい(御霊の新しいからだ)を着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。(肉体に死んで、御霊のからだを着るならば、永遠のいのちを得させられ、神の裁きと永遠の死はその魂から去って行くのです)

 (神を信じる)私たちをこのことにかなう者(御霊のからだと永遠のいのちとを得る者)としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。(私たちのうちに住まわれる真理の御霊は、永遠のいのちと御霊のからだを得させてくださるキリストの御霊です)

 そういうわけで、(御霊の保証のある)私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。(肉体の中にある魂は、肉体によって死へと導く肉の性質に支配されています。御霊の導くいのちの道を選ぶためには信仰と従順を要しており、霊なる神と一つになっているわけではないのです)

 確かに、(信仰によって生きる)私たちは見るところによってではなく(目に見える現実世界を頼みとするのではなく)、信仰によって歩んでいます。(人間が作りだす五次元の世界を目指しているのではなく、私たちの主イエス・キリストが王となられて治められる世界、すなわち、神が用意されている「千年王国」を目指しているのです)

 (信仰をもって御霊の保証を得ている)私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。(死の向こうに、神の全き光の世界が実在しているからです)

 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、(キリストを信じて神と和解した信仰の人である)私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(霊なる神を、霊とまことによって礼拝し、神の御霊とともにあることです)

 なぜなら、私たちはみな、キリストの裁きの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(神を信じる私たちは、被造物の終わりには神の裁きがあることを知っています。神なしで五次元世界を創造する肉の人たちとは違います。新しい次元の世界を目指していても、実質は全く異なるのです。神を恐れない人たちは人間が創造するいのちの世界を目指します。しかし、神を恐れる人たちは、魂の救いと永遠のいのちの保証である御霊を求めて、千年王国を目指します)」(コリント第二5:4-10)

 

 永遠のいのちを得る者の住まいは、機械ではありません。私たちの魂は生きているからです。生きた魂は、永遠に生きる御霊のからだを着せられます。御霊のからだが住まいなのです。

 裸の魂になることは、決してありません。