ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちの木のある国

 

 今の世は悪いものとなって、神の御子キリスト・イエスに敵対し、天の神に反逆する「反キリスト」が世界の覇権を握る世界となります。

 中世の帝国主義世界の最後のオスマン帝国が復興するでしょう。それは、イスラム国として世に現れるのかも知れません。

 イスラム国が世界の覇者となり、中東の十の国の中から立つ反キリストが、十の国を支配し、世界をひとつの経済システム、ひとつのエネルギー、ひとつの国のように機能する新世界秩序を打ち立てるでしょう。

 

 ひとつの国のようになるので、貧しい国と豊かな国、貧しい者と豊かな者との貧富の差はなくなり、戦争も止んで、みなは「平和だ。安全だ。」と安心し、反キリストの支配を喜んで受け入れることでしょう。

 

 世界の気候変動は深刻化し、飢饉と地震、洪水が多発し、多くの人が死に、不安と恐怖にあえぐ中、「反キリスト」は、世界中の人々が平等に安心して暮らせる世界を提唱し、国も民族も言語も異なる人々を一つの国民のようにするために、人々にチップを入れて、だれもがそのチップにより国境なく行き来し、貨幣を使わずに自由に売り買いできるようにするのかもしれません。

 

 そのチップが「反キリストの刻印」なのかもしれません。いのちに光がともる人々は、自分の霊によって、そのチップが危険なことを察して拒むのかもしれません。

 反キリストのスムーズな流動性のある利便性の高い世界の構築に、世界の人々は、良い指導者を得たと歓喜することでしょう。

 

 しかし、反キリストが作り出す世界は、まやかしの世界です。反キリストに権威を与えているのは、人々のいのちを奪い、死んだ魂を永遠の火の池に導く悪魔だからです。

 

 悪魔も悪魔に仕える悪霊どもも、神に裁かれて、永遠の火の池に投げ込まれることが定められています。悪魔は、世に偽りの平安と希望を与えて人々を引き寄せ、神が造られた「人」を一人でも多く悪魔と悪霊どもの永遠の住まいである永遠の火の池に連れて行きたいのです。

 悪魔は、人類の歴史の中で大活躍して多くの魂を獣の霊の奴隷としました。人間のかたちをしていますが、魂は悪魔の性質を持つ獣のようです。人を造られた父なる神の性質を持っていません。

 

 獣の霊とともにある魂は、悪魔の所有となりました。終わりの時代に立つ「反キリスト」もまた、悪魔の性質を持つ闇の子で、悪魔に権威を与えられた滅びの子です。

 

 2025年から、世界は、魂がいのちを求め、生けるまことの神を恐れる「光の子」と、悪魔の与えるこの世の繁栄と楽しみに騙されて、神に高ぶり生けるまことの神を恐れない「闇の子」とに分かれるようです。

 

 「光の子」は、永遠のいのちの神に希望を持つ魂です。憐れみの心、きよい心、正しいこと、義を追い求め、愛を慕う魂に、いのちの光がともるのです。

 「闇の子」は、自分の欲望のまま罪汚れを愛し、闇を愛する魂です。彼らは、光を憎みます。光のほうには近づきません。自分の悪い行ないが暴かれることを恐れるからです。彼らの霊は裁き主を恐れ、決して罪を悔い改めることをしません。彼らの心は闇の中で安らぐのです。彼らのいのちは闇の中です。光を見い出すことはありません。彼ら自身がそれを選んだのです。

 

 光の子も闇の子も、ともに、新しい世界に向かっています。

 光の子らは、永遠のいのちを得るために。彼らは、まことの愛の中で安らぎ、光の報いを受けます。光の子の魂は、いのちを得るのです。

 

 次に起こる「千年王国」の世界は、神が住まわれる世界です。

 「御使いはまた、私(ヨハネ)に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神(神の子羊イエス・キリストの父、すなわち天の神であられる生けるまことの神)と、子羊(人々の罪を贖い、いのちの光を与えて、永遠のいのちを得させられる、神の子羊イエス・キリスト)との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。

 川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木は諸国の民をいやした。

 もはや、呪われるものは何もない。(悪魔は千年の間縛られ、悪霊どもや反キリストや偽預言者は火の池に投げ込まれ、悪魔の子らは滅ぼされており、もはや、彼らはその世界に存在していないからである)

 神と子羊との御座が都にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。(彼らは、キリストと一つ心となってユダヤ人の時に世界宣教をして、七つの御霊の教会を子羊のために整えた十四万四千人のユダヤ人でしょう)」(黙示録22:1-4)

 

 反キリストが支配していた十の国の国土は、かつて、神が、アブラハムとアブラハムの子孫に与えると約束されたカナンの地の全土でした。

 反キリストは、アブラハムの子孫からそれを奪い、自分の国としていたのです。エルサレムの神殿に立ち、自分を神とし、悪魔を礼拝させました。

 しかし、天から来られたキリストと天の軍勢によって、反キリストの国は滅ぼされ、反キリストの国民は死に絶えました。

 

 神がアブラハムに与えたカナンの地には、アブラハムの子孫イスラエルの国が建ちます。

 キリストは、このイスラエル王国の王です。

 イスラエル王国の国民は、永遠のいのちと御霊のからだを受けた人々です。アブラハムの血肉の子孫もいます。生けるまことの神、主に仕えるアブラハムの信仰の子孫もいます。

 

 悪魔の試みにも勝利し、信仰を持ち続けて信仰に勝利した神の民です。この国の国民は人の子の霊(キリストの霊)によって、生けるまことの神に立ち返り、永遠のいのちを得た神の子どもたちです。

 

 キリストは、この国の都の王座に着き、世界の諸国からは、キリストを礼拝しにやって来る者たちがいます。

 都には、いのちの木があります。このいのちの木の実を食べるならば、永遠に生きる者となるのです。

 

 イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちの魂や、獣(反キリスト)やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちは、生き返って、キリストとともに、千年の間王となります。(黙示録20:4)

 

 子羊(イエス・キリスト)が治める「とこしえのイスラエル王国」の四方には、生き残っている人々の住む諸国があります。肉体の人々です。罪の贖われていない人々です。肉体の彼らは、千年の間、今の世界の延長のように妻をめとって子を産み、増え広がるのでしょうか。

 しかし、千年王国では、誰もが、子羊イエス・キリストこそがまことの救い主であることを知っています。

 

 「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。

 しかし、すべて汚れた者(偶像礼拝に浸った者)や、憎むべきことと偽りとを行なう者(反キリストに仕えた者や人間の作り出す虚構の世界に浸る者)は、決して都にはいれない。子羊のいのちの書に名が書いてあるものだけが、はいることができる。」(黙示録21:24-27)

 

 地の四方にある諸国の民のうち、都にはいって、いのちの木の実を食べる者たちもいるようです。彼らは、いのちの木の実を食べて、永遠のいのちを得ます。

 

 「自分の着物を洗って(自分の行ないを悔改めて)、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

 犬ども(偵察に来るだけの者)、魔術を行なう者(虚構を造り出す者)、不品行の者(人間であることに執着する者)、人殺し(魂を闇に導いた者)、偶像を拝む者(神でないものを手放すことのできない者)、好んで偽りを行なう者(よこしまな者)はみな、(都の)外に出される。」(黙示録22:14,15)

 

 「千年の終わりに、(縛られて封印されていた)サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼ら(犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者ら、子羊のいのちの書に名が書かれていない者たち)を召集する。彼らは海辺の砂のようである。

 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都(子羊が治めるとこしえのイスラエル王国、すなわち、カナン全土)とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。(ノアの時代、大水で世を滅ぼされた主は、次は火で滅ぼすと仰せられたことばを成就されます)

 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣(反キリスト)も、偽預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示録20:7-10)

 

 エデンの園にあったいのちの木が、地上の千年王国の都にあります。

 それは、十二種の実をならします。イスラエル十二部族のそれぞれに与えられた食べ物なのでしょうか。イスラエルに与えると約束されたカナンの地に、七つの御霊の教会がはいりますが、相続地は、イスラエル十二部族に等分に分け与えられるようです。

 「在留異国人(異邦人)には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。」(エゼキエル47:23)

 永遠のいのちを得させられた異邦人は、十二部族の中に相続地を得るようです。

 

 光の子らは、機械と融合する人工的なまやかしのいのちではなく、いのちの木のある国が起こるのを待ち望んでいるのです。

 彼らは、永遠に生きる魂となること、すなわち、永遠のいのちを得させてくださる方に信仰を持っているからです。