ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ローマ書十五章 あなたがたも互いに受け入れなさい

 

 パウロは言います。

 「キリスト(神の子羊イエス)は、神の真理(神が真実な方であること)を現わすために、割礼の(しるしの)ある者(神と契約を持つユダヤ人)のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するため(神が、イスラエルの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブ、すなわち、ユダヤ民族の先祖たちに与えられた約束を成就するため)であり、また(神との契約を持たない無割礼の)異邦人も、(神の)あわれみのゆえに、(キリストにある神の権威〈聖霊のバプテスマを授ける権威〉を知って)神を崇めるようになるためです。」(ローマ15:8,9)

 

 神がユダヤ民族の先祖たちに与えられた約束とは何でしょうか。

 神がエデンの園で蛇に仰せられた、蛇の頭(悪魔)を踏み砕く、女(罪を犯したエバ)の子孫として生まれる「人の子」(悪魔を滅ぼすキリスト)を、アブラハムの子孫に遣わすということです。

 

 神は、人類を罪の呪いの「死」から救うために遣わす「人の子」を用意されます。神は、神のひとり子に肉体を造り、「人の子」として、アブラハムの子孫のヤコブの子ユダヤ民族の処女の胎に宿らすことを御計画されていました。

 

 神のひとり子は、永遠の昔から父なる神とともにおられました。天地万物が創造されるのをかたわらで見ておられ、また、父とともに人を創造した神の御子です。

 神の御子は、父であられる全能の神、主と同様に、霊なる存在でした。

 天にあるものは、肉体のない存在です。しかし、神のひとり子は、父に従い、父が造られる肉体の中に入って、人間と同じ姿となって「人の子」としてユダヤ人として、地上に生まれてくださいました。

 

 ユダヤ人としてお生まれになったキリストは、イスラエルの王ダビデの子として、ダビデの町ベツレヘムでユダヤ人の処女から生まれたイエスです。

 

 神は、イスラエルの先祖アブラハムに、また、アブラハムの子孫ヤコブに、カナン全土を相続地として与えると約束されました。

 神は、ユダヤ人のレビ族のモーセに、ユダヤ人の中から、罪の世から救い出し神の民を導くキリストが現われること、また、キリストは神御自身がイスラエルに遣わされることを語り、そして、神の民はこのキリストに聞き従わなければならないと命じられました。

 神は、ヤコブの子孫イスラエルに、イスラエルの王ダビデを立てられて、ダビデ王に、とこしえにダビデの王座に着くキリストを与えること、すなわち、キリストはダビデの子であることを約束されました。

 

 神が、イスラエルの先祖たちに与えられた約束は、神がイスラエルに遣わされるキリストによって成就します。

 神が遣わされる「キリスト」は、イスラエルの先祖たちに神がお与えになった約束の保証でした。

 

 神は、イスラエルの処女、ダビデの子ヨセフの許嫁のマリアの胎内に、神の御子イエスを宿らせました。

 イエスは、世の罪を取り除く神の子羊であり、天から来られた神の御子です。

 御子イエスは、ユダヤ人たちに、イスラエルの神は天地万物を造られたすべての被造物の父なる神であること、父が御子にお与えになる天の御国について、天の御国に入る神の民が得させられる永遠のいのちについて、永遠のいのちにふさわしく新しい創造をされる聖霊【真理の御霊】について、教えられました。

 

 神が遣わされた神の子羊イエス・キリストは、十字架で罪の贖いの血を流して、世の罪を取り除かれました。主に向くならば(神の御子イエス・キリストを信じるならば)、罪は赦されて、神に義とされるのです。

 神が遣わされた「人の子」キリストは、ダビデの子として生まれました。キリストは、天の御国にはいる神の子どもたち(御霊によって新しく創造される新しい人)が国民である「とこしえのイスラエル王国」の王なのです。イエス・キリストがイスラエルの王となることは、「千年王国」の世界で成就します。

 

 神が遣わされたキリストは、異邦人の救い主でもあります。天の神は、あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる言語の人々、全人類を造られた唯一の神です。神がおひとりならば、異邦人にとっても神なのです。

 

 神が選ばれたユダヤ民族にキリストを遣わし、ユダヤ民族によって、キリストの福音を全世界に宣べ伝えることが神の御計画でした。

 永遠のいのちを得させられるという「良き知らせ」は、世界中の希望です。ユダヤ人に託されたキリストの福音は、異邦人もまた唯一の神である生けるまことの神を崇めるようになるためでした。

 

 「異邦人よ。主の民(神と契約を持つ主の民ユダヤ人)とともに(神の御救いを)喜べ。」(ローマ15:10)

 

 しかし、神の御子イエス・キリストを信じないユダヤ人たちは、その御計画から外れました。そして、キリストを信じる異邦人に託されたのです。

 

 パウロは、異邦人のための使徒でした。パウロは、異邦人の救いのためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神によって召されました。

 

 パウロは言います。

 「私(パウロ)は神の福音をもって(神が和解のために遣わされた神の御子イエス・キリストを信じなさい。イエス・キリストは、天から遣わされた唯一の救い主です。彼を信じる者は神の子どもとされる特権を得る、と宣教することで)、祭司の務めを果たしています。(キリストは、天の神と和解させ、天の御国にはいる神の子どもに造り変え、永遠のいのちを得させられる。パウロは、罪により神から離れている人たちが神のみもとに帰るのを助ける祭司の働きをしています)

 それは異邦人を、聖霊(死から甦られたキリストの生かす御霊)によって聖なる者とされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(ローマ15:16)

 

 神に聖書をゆだねられたユダヤ民族には、祭司の務めがあります。

 あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる言語の人々に、キリストの福音(永遠のいのちを得させる福音)を宣教して、異邦人をも、神に立ち返らせる働きがゆだねられているのです。

 

 「あなたがた(異邦人)が、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」(ローマ15:6)

 

 キリストを神として崇めるためではありません。

 約束どおり、蛇の頭を踏み砕く「人の子」(神の御子イエス・キリスト)を遣わしてくださったことを感謝し、私たちを、罪の呪いの死から救い出してくださるキリストを遣わしてくださった「イエス・キリストの父なる神」をほめたたえるためです。

 

 神の御子イエス・キリストは、いつも、父なる神が栄光を取られることを望んでいました。ご自分の栄光を望んでおられたのではありません。

 キリストの望みは、私たちが心を一つにし、声を合わせて、父なる神をほめたたえることなのです。

 

 ユダヤ人たちの不信仰ゆえに、異邦人のキリスト者たちが、キリストの福音の務めを担って来ました。

 務めを担うはずの神の民ユダヤ人が、キリストの福音の務めを担わないために、福音の内容に歪みが生じました。

 

 異邦人のキリスト者たちは、「聖書」がユダヤ人のものであることを忘れています。聖書の預言のすべては、イスラエルとともにあり、また、ユダヤ人から出たキリストによって成就するのです。

 

 マケドニアとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人(ユダヤ人)たちのために醵金することにした、ということについて、パウロは言っています。

 「彼らは確かに喜んでそれ(献金)をしたのですが、同時にまた、その人々(ユダヤ人たち)に対しては(「聖書」をユダヤ人から受けた異邦人はユダヤ人たちに対して)その義務があるのです。

 異邦人は霊的なことでは、その人々(キリストを出したユダヤ人)からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。(聖書や預言やキリストは異邦人の中からは出ません。ユダヤ人のものです。この霊的な財産を、異邦人はユダヤ人からもらっているので、異邦人は物質的な物をもってユダヤ人に奉仕すべきです)」(ローマ15:15:27)

 

 パウロは、異邦人から醵金したユダヤ人への献金を、「異邦人の信仰が結ぶ実」だと言っています。

 異邦人は、ユダヤ人たちに負債があります。

 ユダヤ人たちから、ユダヤ人の所有であった霊的な物を譲り受けているのです。永遠のいのちを得させるための神のみことばである「聖書」をいただきました。神の祭司の国民であるユダヤ人たちが罪の贖いの子羊として屠った神の子羊イエス・キリストの血と御救いの信仰をいただきました。

 

 神の契約は、破られるものではありません。

 神は契約に忠実な方です。

 ユダヤ民族が神の民であることは、昔も今も変わりません。神の民であるユダヤ人、また、イスラエルに親切にすることは、イスラエルの神に覚えられることです。神の報いがあるのです。

 

 ユダヤ人に良くした人々、イスラエルを祝福する人々、ユダヤ人やイスラエルのために祈る人々や献金をする人々は、イスラエルの神、すなわち、生けるまことの神、また、イスラエルの王、すなわち、主イエス・キリストに、その人の信仰の実として受け入れられるのです。キリスト教徒でなくても、報いを受けるのです。

 

 「キリストが神の栄光のために(広い心で天よりも高い恵みと地よりも深い愛をもって、全人類を愛される創造主の憐れみの深さゆえに)、私たち(異邦人)を受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(ローマ15:7)

 

 日本列島に真理の御霊が注がれるとき、霊とまことをもって霊なる神、生けるまことの神を崇める人々の間に、宗教の壁はありません。

 宗教によって救われるのではありません。生けるまことの神を自分の霊で捉えて御霊によって神を礼拝するとき、神道からも仏教からも無宗教の人々の中からも真の神を礼拝する者が起こるでしょう。

 

 神が、キリストのために集められる教会は、キリスト教会ではなく、霊とまことによって霊なる神を礼拝する「御霊の教会」なのです。

 御霊の教会は、一つの御霊により、一つの信仰です。ユダヤ人、イスラエルとも和合する、神に受け入れられる御霊の信仰です。

 

 神は、ユダヤ人に律法をお与えになりました。ユダヤ人は律法に信仰を持ちました。

 神は、ユダヤ人にキリストをお与えになりました。キリストに信仰を持つユダヤ人と異邦人とが、キリストの御名に信仰を持ちました。

 神は、全人類に聖霊を注がれます。キリスト者も、神道、仏教徒も、ほかの宗教の人も、無宗教の人も、ユダヤ教徒も、目に見えない御霊の信仰によって目に見えない霊なる神、生けるまことの神を崇める時が来るのです。

 

 神は、御霊の信仰の人々に、永遠のいのちと御霊のからだを与えられます。

 彼らは、御霊によって一つ、そして、心を一つにして、声を合わせて生けるまことの神(主イエス・キリストの父なる神)をほめたたえるのです。

 

 神は、キリストのために、千年王国で彼らを集めて国民とし、カナン全土をユダヤ民族の十二部族に割り当てて、一つの国「とこしえのイスラエル王国」を建てられます。

 アブラハムに約束された相続地は、約束どおり、イスラエルが相続します。

 こうして、聖書のみことばは、キリスト・イエスにあって、ことごとく成就するのです。